2015年03月05日

考える


第20回アートプロデューサー竹山貴の「月例 あなたの知らない世界」に伺ってきた。

https://www.facebook.com/events/624787821001233/628443380635677/?notif_t=like

そこで,自分なりに,ひとつの問い,

「考える」とはどういうことか,

を得た。問いを得るとは,自分なりに(新しい)答えを探す,ということである。どこかに答があるのではなく,自分なりに答を見つける,ということである。

確か,野中郁次郎氏は,

知識とは思いの客観化プロセス,

という言い方をされた。その思いとは,外にではなく,自分の中にあるものである。それを,

疑問

と呼んでもいいし,

問題意識

と呼んでもいいし,

問い

と呼んでもいい。あるいは,アインシュタインは,ニュートンの万有引力の法則に欠陥を見つけ,

重力はどういう仕組みで働くのか,

太陽はどうやって一億五千万キロの本質的に空っぽの空間を超えて,地球に影響をあたえているのか,

という「愚問」とも思える疑問を懐いた。10年考え続け,アインシュタインの場の方程式を考え出した,と言われている。ここから類推すると,考えるとは,少し独断的な言い方になるが,

自分なりに疑問に感じたことを,自分なりに突き詰め,答えを出すこと,

なのだと思う。そのとき,僕は,ひらめくのと同様,

視界が開く,

という感覚がある,と思っている。大袈裟な言い方をすると,自分の見つけた答によって,(自分にとって)新しい知の地平が開く,という感覚である。吉本隆明の言う,「知ることは,超えることの前提である」というのはこういうことではないか。もちろん,その答は,まだ仮説にすぎない。それは,検証されない限り,妄想と変わらない。だから,考えるというのは,内省のように自己完結することではない。自閉された思考は,妄想と地続きの恐れがある。

疑問から始まる,ということは,

当たり前にしない,

ということでもある。敢えて言えば,疑いを持ってみる,といってもいい。仮説は,基本,その疑問の言語化からしかスタートしない。それが,思考の方向をつけていく。ランダムに思考を掘り下げるわけではない。

仮説については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163509.html

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0926.htm

で触れた。疑問から仮説化し,検証するプロセスが,自分が「知」を獲得していくプロセスなのではあるまいか。だからこそ,「思いの客観化プロセス」なのである。横井小楠が,学ぶとは,

「我が心上に就いて理解すべし。朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず。」

というのもその意味である。「書を読み文を作る」だけでは,考えることではない。

「書物の上ばかりで物事を会得しょうとしていては,その奴隷になるだけだ。日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのかを考える,そのまま書きとめるのではなく,おのれの中で,なるほどこのことか,と合点するよう心がけるが肝要だ。合点が得られたときは,世間窮通得失栄辱などの外欲の一切を度外視し,舜何人か,小楠何人かの思いが脱然としておこる,」

と言っているのである。ただし,そこまでは妄想である。その得心を,

「日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのか」

を考える,僕はこれが検証,あるいは試行することなのだと思う。ただ,行動だけを言っていない。僕は,思考も立派な行動だと思っているので,掘り下げ,考え詰めてはじめて,視界が開く,それは,解決策であると言い換えてもいい。

かつて考えるということについては,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view07.htm

で整理したことがあるが,時実利彦氏は,考えるとは,

「受けとめた情報に対して,反射的・紋切り型に反応する,いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決,たてた目標の実現や達成のために,過去のいろいろな経験や現在えた知識をいろいろ組みあわせながら,新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち,思いをめぐらし(連想,想像,推理),考え(思考,工夫),そして決断する(判断)ということである」(『人間であること』)

と定義している。これは,思考プロセスは,反応することではなく,意識内部を経た対応することだ,と言っているだけである。だから,意識が対応するとは,具体的にどういうことかは,捨象されている。

たてた目標を実現するために過去の知識と経験を組み合わせ,まとめる,

とは,どうすることなのか,である。端緒は私的な「思い」からしか始まらない。その私的な思いを客観化して初めて,人と共有可能になる(あるいはひとと議論し研鑽できる)。それが「知」である。

語源的に言うと,「カンガエ(ヘ)」は,

「カ(ありか,すみか)+向かう(両者を向い合せる)」で,事柄に対して二つを向い合せる,

という説と,

「勘+がふ」で,中国音の勘(あれこれと思いめぐらす)を動詞化した,

という説とがある。「かんがへ」は,事実,古語辞典では,「考へ」と「勘へ」と「検へ」とを当てている。そして,

調べただして,考え罰を与える
占いの結果を取り調べて,解釈する
比較考量する

の意味がある。しかし「カンガヘ」は,「カムガヘ」の転訛したものとしている。で,「カムガヘ」を見ると,この古語辞典では,上記の説1の方を取っていて,

古くは,カムカヘ。カはアリカ,スミカのカ。所・点の意。ムカヘは,両者を向き合わせる意。二つの物事をつきあわせて,その合否を調べて,ただす意,としている。意味は,

事実の真偽をしらべ,ただす
調べただして罰する
あれこれ思いはかる

という意味としている。これは,「考える」の一側面でしかないのではないか。だから,哲学研究者はいても,わが国には哲学者,思想家がすくないのではないか,と茶々を入れたくなる。

ふと,カムカヘは,カム(神)ムカヘ(迎へ)ではないのか,という疑問がわく。「ムカヘ」(迎へ)には,呼び寄せる,招くという意味がある。神託を受けることが,考えることだったのではないか,という疑問がわく(熊本の神風連はそうやって行動を決めていたらしい)。妄想である。

中国語の「考」は,腰の曲がった老人の意。これを考えるに用いるのは,攷(コウ)に当てた用法。「攷」は,「丂」(コウ)は曲がりくねった形,「丂」+「攴」(動詞記号)で,まがりくねりつつ奥まで突き詰めること,という意味になる。だから,「考」は,

あれこれと突き詰める
思いめぐらした末に出た意見,またはその論文
遠くまで,終りまで進む

という意味になる。さらに,「勘」は,「甚+力」だが,「甚」は,「甘(おいしい)+匹(いろごと)」の会意文字。食や色事の道楽に深入りする意。「深い」と同系なので,「勘」は,奥深くまで徹底して突き詰める意味になる。意味も,

かんがえる
奥深く突き詰める

となる。しかし,日本語の「カンガヘ」に当てた途端,「比較考量」「調べただす」「託宣の解釈」というニュアンスが出てくる気がするのは,僻目であろうか。ま,しかし,こういうことを云々するのは比較衡量しているだけで,考える,には当たらないのかもしれない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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posted by Toshi at 05:52| Comment(0) | カテゴリ無し | 更新情報をチェックする
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