2015年03月07日
ぼんやり
ぼんやり
というのは,
物の形や色などがはっきりせず、ぼやけて見えるさま。
事柄の内容などがはっきりしないさま。意識,記憶がかすんでいるさま。
元気がなく、気持ちが集中しないさま。
気がきかず、間が抜けているさま。
といった意味がある。少なくとも,驚きのあまり言葉を失った様子の,
呆然,茫然自失,唖然,肝をつぶす,言葉がでない,言葉を失った,放心状態,ポカン,
や, 脳に血液が十分通わないことが原因で、自然に起きた意識喪失としての,
失心,卒倒,失神,人事不省,気絶,
といった類のこととは別のことだ。日常生活は普通にしているが,
ぼさっと,
ついつい,
ついうっかり,
うかうかと,
ふと,
ぼーっとして,
思わず,
漫然,
取り留めない,
何となく,
といった,注意不足というか,気を抜く,というのに近い。結果として,注意力散漫,気の弛み,緊張感の欠如,精神の弛緩で,うかうかと何かを引き起こす。そのときになって,はっとする,というか,
不覚
を悟る,ということになる。古語辞典には,
うかと,
というのが載っていて,ほぼうっかりと同義で,気づかずにいる状態,の意味としている。
語源的には,「ぼんやり」は,
「ボヤ+リ」
で,ボヤっとしたの語幹。ボヤに,リが加わり,音韻変化で,撥音化し,
ボ+n+ヤ+リ
となったもの,とされる。転じて,間抜けで気がきかない,という意味になった,とある。いわば,
ぼやっとした,意識が焦点の合わない状態,
にあるということに近い(それを対象側で言えば,ぼやけていることになる)。意識して,何かをしていない,ということだ。そうなれば,周囲への目配り,気配りがおろそかになる。よく,遠くから見知った顔に気づくが,相手は,すれ違っても,こちらに気づかない,ということがある(当然逆もある)。それは,
意識が内向き,
になっていて,心の中の何かにとらわれている,ということでもある。多く,ぼんやり,とはそういう状態ではないか。それは,不用心に身をさらしている,ということになる。心ここに在らず,というほどのことではないが,だから,
うっかり,
うかうか,
なのだ。なんとなく,
迂闊
に似ている。迂闊は,中国語の,
迂(曲がりくねって遠い)+闊(打・搗)
で,事情が遠い,意。日本語では,注意力が足りずうっかりする,意。しかし,辞書には,語源の,
回り遠くて,実情に当てはまらない,迂遠の意味,
のほかに,
大まかで気のおおきいこと,
意味もあるようだ。細かなことを気にしない(気にならない),ということだ。「迂」の字は,
回りくどくて実際的でない,
ものごとに疎く実際的でない,
という意味がある。
「辶+于」の「辶」は「辵(ちゃく)」で,
はしる,たたずむ
という意味。「于」は,指事文字(形をもたない抽象的な、ようす・動作・状態などを、象徴的に表そうとした字)で,
息が喉につかえて,わあ,ああと漏れ出すさま,
を示す。直進せず,曲がる意を含む。
「闊は,「門+活」「活」は,水が勢いよく流れること。ゆとりがあって,つかえない,意。「寛(ゆとりがある)」の語尾が縮まった形,という。だから,
ひろびろしている,
はるかとおい,
ゆるい,
という意味になる。両者合わせて,
遠くて,実際的でない,
というか,(意識の)ピントが合わない(からぼんやり見える),という意味に取れる。
ぼんやりしている,迂闊に過ごす,というのは,身の回りを見過ごす,ということに近い。それは,
見れども見えず,聞けども聞こえず,
つまり,
心焉(ここ)に在らざれぱ,視れども見えず,聴けども聞こえず,食らえども其の味を知らず,此れを,身を脩むるはその心を正すに在り,と謂う。
である。それは意識状態というよりも,是非の判断状態といってもいい。簡単に付和雷同するときは,ほぼぼんやり,と言っていい。
ぼんやり
は,自滅の始まりである。おのれに迫る危機に疎い,ということでもある。それを
うつけ
という。「うつけ」というのは,
中がうつろになっている,
ぼんやりしていること,またはそういう人,
という意味である。「うつける」から来ている。
中がうつろになっている,
とは,ぼんやりそのままを言い当てている。
参考文献;
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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