自分のペースではなく,相手のペースに合わせる,
というのが苦手である。自分のペースというのは,言い換えると,思考スタイル,言葉出しのスピードということになる。
自分のスピードは速い。自慢ではなく,思考(の回転という意味ではなく,思い込みという意味だが)スピードも速い。だから,待ちきれず,勝手に忖度する。しかし,それは,自分の思考であり,自分の流れに過ぎない。これは,日常のコミュニケーションでも,他でも,いつも同じだ。
確か,吉本隆明が,
「言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉にあるのであって、根幹は沈黙だよ。」
と,どこかで言っていた。あるいは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413804239.html?1423514030
で,前にも触れたが,同じく,
「沈黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです。」
とも言っている。ということは,
間合いに合わせる,
とは,
相手のしゃべる言葉の間に合わせる,
のではなく,
相手の沈黙に間に合わせる,
と,言い換えてもいいのかもしれない。それは,
相手の呼吸にあわせる,
ことではないか,と言われた。しかし,どうも違う。
沈黙は,息遣いとは別,
のような気がする。それは,共感性をはかる目安なのではないか,と最近思う。共感性は,ロジャーズが,
「『あたかも~のごとく』という性質(“as if” quality)を決して失わない―これが共感」
なのであって,「あたかも」だから,もちろん,イコールにはならない。しかし,この頃思うのは,「あたかも」というところの,「まるで相手そのものであるかのように」という点に力点を置くのではなく,
相手の沈黙を自分の沈黙として受け止めようとする,
ところにおくと,沈黙に焦点が当たるのではなく,沈黙の中身に焦点が当たる。つまり,
黙っている,
という外面(そとづら)ではなく,内側,
言語化のために格闘している自己対話,
に焦点が当たる。だから,「あたかも」は,
そのつもり,
ということではない。ロジャーズは,上述に続いて,
「クライエントの怒り,怖れ,あるいは混乱を,あたかも自分自身のものであるかのように感じ,しかもそのなかに自分自身の怒り,怖れ,混乱を巻き込ませていないということ」
が,条件であり,そうであるからこそ,
「クライエントの世界がこのようにセラピストにはっきり映り,セラピストがクライエントの世界のなかを自由に歩きまわるとき,セラピストは,クライエントにはっきりしているものを自分が理解していることを伝えることができるばかりではなく,クライエントがほとんど気づいていない自分の経験の意味を言葉にして述べることもできる」
という。とすれば,一緒に沈黙に潜り込み,そこで起こっていることを,体験してみることもできる。その沈黙の間に即することで,それが,テンポになり,思考のリズムになるのかもしれない。しゃべっている言葉や,喋っている息遣いではなく,その間,
沈黙
の間合い,テンポに注意を払う。ちょっと矛盾しているかもしれないが,そのくらいでないと,相手の黙っている意味が見えない。
沈黙は,黙っていることではなく,
饒舌な自己対話,
そのもののはずである。それを聞き取れなければ,共感していない証でしかない。
僕は,ふと,武満徹
『ノヴェンバー・ステップス(November Steps )』
を思い出した。あれは,音と音の間の静寂(しじま)に意味がある。
参考文献;
カーシェンバウム&ヘンダーソン編『ロジャーズ選集(上)』(誠信書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
ラベル:ペース