2015年03月15日

砂の骨


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劇団トラッシュマスターズの『砂の骨』(作・演出中都留章仁)を観てきた。

http://setagaya-pt.jp/theater_info/2015/03/post_390.html

http://www.lcp.jp/trash/next.html

幾世代か前の作家すら,真正面で取り組まなかったような,今日の日本社会を主題に,真正面から取り上げていることに,妙に感動した。ちょうど,60~70年代のような雰囲気を醸し出す劇であった。そのことは,評価したい。

ただ,劇としての評価とは別だ。

かつて大島渚が,初期に,『日本の夜と霧』『絞死刑』等々でみせた,思いが先立ち,劇としての結構や世界を崩してでも,台詞で思いの丈を語らざるを得なかったような,そんな衝迫は,わからないでもない。しかし,それは,劇としてはどうなのか,と感じる。

テーマは貧困である。

だから,ホームレスがおり,雇止めされる契約社員がおり,それをマネジメントする上司もまた会社から意味ないレポートを毎日提出させられて苛まれている。それは,ホームレスから一般会社員までが,(ほんの一跨ぎで)地続きであることを示している。この構造に日本社会の問題を見ようとする着眼はよしとする。

今日,厚生労働省調査で,

「等価可処分所得の中央値の半分の額に当たる『貧困線』(2012年は122万円)に満たない世帯の割合を示す『相対的貧困率』は16.1%だった。これらの世帯で暮らす18歳未満の子どもを対象にした『子どもの貧困率』も16.3%となり、ともに過去最悪を更新した。日本人の約6人に1人が相対的な貧困層に分類されることを意味する。」

という。だから,いま,本当は,

(民衆なら)暴動,

(国家なら)戦争,

以外に,現状を打開する方法がない,とさえ言われる日本の現状である。

しかしである。国家のありようや,民のありようを表現するとき,登場人物に,演説させたり,高説をのたまわせることは,作品として如何なものか,という疑問が出る。ホームレスの一人が,叫び,演説風のことを公言するのは,まるで,60年代末の雰囲気である(ハンドマイクを持たせたあたり,作家はその戯画化を意識していたかもしれない)。

しかしである。その真只中にいた清水邦夫は,

『真情あふるる軽薄さ』

『狂人なおもて往生をとぐ』(これは,http://ppnetwork.seesaa.net/article/414023708.htmlで触れた)

で,直截的ではなく,メタファーとして,踰として劇を創ることで,演劇としてのインパクトを持たせた。僕は,直截的であることを必ずしも悪いこととは思わないが,劇中人物(特にホームレスの「大知」)が,正しいことを語れば語るほど,こそばゆく,恥ずかしくなった。それは,我が身を恥じてではなく,劇としての唐突感から来る,と思う。

メタファーとは,作家の距離感を示している。それがない。

勘ぐるに,作家が正解を知っていて,それを教えるために(登場人物に)語らせようとしている,そういうこそばゆさだ。実は,皆薄々知っているのだ,自分たちが,エッジの縁を歩いているのを,切りたつ尾根道を,踏み外すかどうかのギリギリにいることを。それを,あからさまに言語化されて,抵抗があるのだ。それは,御高説に過ぎない。劇は,世界として,現前化してもらわなくてはならない。

ホームレス,
(レストランチェーンの)契約社員,
(レストランチェーンの)契約社員を使う(元契約社員の)店長候補,
(レストランチェーンの)店長,
((レストランチェーンで)残業90時間で)くも膜下で突然死する料理長,
離婚調停中の夫婦(生活保護申請をするために偽装の離縁を持ちかけた夫),
金欲しさで自分の足を切るホームレス,

と並べてみると,貧困を描くのにふさわしい人物構成だろうか,とちょっと疑問を感じる。

貧困は,(貧困側ではなく)貧困すれすれのところにいる人に,最も集中的に,象徴的に現れる(この場合,雇止めされようとしている契約社員か店長候補に当たる)。一つ間違うと,地続きのホームレスまであと一歩なのだ。それが,十分描けていない気がしてならない。

貧困は凶器だ,

としいうセリフがあった。しかし,それを世界として,物語として描かなくては,劇としては,観客に消化不良を起こさせる。

貧困も自己責任,
シングルマザーも自己責任,
非正規雇用にしかなれないのも自己責任,
終活できないのも自己責任,
子どもを育てつつ働けないのも自己責任,
正社員として成果を出せないのも自己責任,
正社員としてトップ(上司)の覚え目出度く(なれ)ないのも自己責任,
ホームレスになるのも自己責任,

すべて自己責任の名のもとに,個人個人に自己完結させて,身を縮めさせていく。確かにその通りだ。それならは,そのことを徹底的に,劇空間の,世界として描くすべはあったと思う。

井上光晴の『地の群れ』『虚構のクレーン』等々といった作品群を思い出した。が,しかし,そこには演説はない。ただ,日常会話が積み重ねられ,にっちもさっちもいかない日常の悲惨さが,世界として語られている。悲惨とも,登場人物は言わない。言わないから,世界として,悲惨が顕在化してくる。悲惨は,悲惨と叫ぶなかにではなく,そのことに気づかない,懸命になってあがいているところにある。それを世界として,顕在化してもらわなくては,消化不良が起きる。

たとえば,ホームレスが貧困の象徴ではない。日々まともな格好をしているが,ネットカフェにしか住処のないものも,かつかつ日銭を稼ぎながら,家賃と食費ですべてが消えるのも,正社員として齷齪としていてもふと立ち止まったら,踏み外しかねない危機にあることも,境界線は,ほとんどないところにこそある。

考えると,サービス残業がほとんど当たり前のように横行する(残業が多いのは仕事効率化の工夫がないからという集団圧力もある)日本企業は,(休暇も含めた)労働時間管理に厳しい中で競争しているドイツ企業に言わせたら,すべてブラック企業なのかもしれない。その底無しの日本社会の絶望感が,ここからは見えてこない。

作家は解決策を考えようとしているらしいが,組合をつくることが,あるいは,仲間を作ることが,本当にそうなのかは,ちょっと疑わしい(タイトルの「砂の骨」は,砂も固まれば骨になる,というメタファーではないかと感じているが)。

作家が解決策らしいものを出して,未来を展望する必要があるのだろうか。むしろ。絶望の底の底の底まで,徹底的(徹底とは,底を徹することだ)に描くべきだ。今日,中途半端な希望は,幻想よりもたちが悪い。

晩年の田村隆一は,「芸術って何ですかね?」と問われて,

「希望だろうな,陰惨な絵でも、悲痛な音楽でも、救いのない小説でも、ある人にとっては希望になるんだよ。おもしろいよな。」

と言ったという。

たとえば,今日世界の流れに,国債をリスク資産と評価し,各銀行に自己資金の積み増しを求める,という動きが出ているらしい。そうなれば,下手をすれば,国債が暴落し,日本自身が自己破産,ホームレスになりかねない危機にある。危機は,構造や仕組みにある。その危機が,作家にも,劇にもない。それが,あたかも個々人の努力で何とかなる,という希望につなげようとしているところに現れている。

それは,自己責任という言葉で,各個人に自己完結させようとする今日の風潮の中に,作家自身もまたいる,と言う証に見える。








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:08| Comment(0) | 劇評 | 更新情報をチェックする
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