2015年03月16日

おのずからとみずから


竹内整一『「おのずから」と「みずから」』を読む。

語源的には,「おのずから」は,

「オノ(己)+ヅ(の)+カラ(原因,由来)」

で,ひとりでに,という意味になる。「みずから」は,

「身+つ(助詞)」

で,それ自体,つまり,自分から,の意となる。

しかし,日本語では,

みずから

おのずから

も,「自ずから」を当てる。そこには,

「『おのずから』成ったことと,「みずから」為したことが別事ではないという理解がどこかで働いている。」

と,著者は述べる。その例として,

「われわれは,しばしば,『今度結婚することになりました』とか『就職することになりました』という言い方をするが,そうした表現には,いかに当人「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても,それはある『おのずから』の働きでそう“成ったのだ”と受けとめるような受けとめ方があることを示しているだろう。」

もちろん,婉曲的な言い回しで,敢えて「結婚します。」ではなく,「結婚することになりました。」という言い方をしたがる,ということはあるにしても,「そうなるなりゆきで,こうなりました」ということを言外に含んでいる。そう言えば,「さようなら」も,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/402221188.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163568.html

等々で触れたが,「そういうことなので,おわかれします」という言い方は,再見,Good by(神の身許にあれかし),Auf Wiederserhen(再び会いましょう),Au revoir(またあいましょう)等々にくらべると,「そういうことなので」と,おのずからのニュアンスがある。

似た例で,「出来る」も,

「『出来る』とは,もともとという意味であり,ものごとが実現するのは『みずから』の主体的な努力や作為のみならず,『おのずから』の結果や成果の成立・出現において実現するのだという受けとめ方があったゆえに,『出(い)で来る』という言葉が,『出来る』という可能性の意味を持つようになった」

と,言う。当然それは,諸々の出来事は,

「『おのずから』の働きで成って行くのであって,『みずから』はついに担いきれない」

という,責任が取りきれない,という考え方に通じていく。それを,

「『みずから』は『おのずから』に解消されてしまっている」

と,著者は言う。当然それは,ただ主体の責任を溶かしこむだけではなく,

「『みずから』が『おのずから』の働きに不可避に与りつつもなお,かけがえのない『みずから』を生きているという受けとめ方がそこにある」

というのも事実である。お蔭様という言い方と通底する考え方である。お蔭様については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415123076.html

で触れた。そこに,「なるべくしてなった」という力を強く感じとっている,ということである。

著者は,本書で,

「『おのずから』と『みずから』とを,ともに『自(か)ら』という一語で語りうるような基本発想において,日本人は,繊細でゆたかな情感を持った独自の思想文化を育ててきたのであるが,しかし同時にそれは,自立的・合理的な思考を欠く不徹底で曖昧な思想文化でもあるという批判をも生みだしている」

として,「おのずから」と「みずから」の「あわい」を,様々な例で,問い直している。それは,

「日本人の自然認識,自己認識のあり方をあらためて相関として問い直すことであり,また,その問いにほぼ重なる問いである,超越と倫理との関わりへの問いをも問うことになるだろう。」

と。たしかに,

自然(おのずから)
「どうせ」の発想(無常感)とおのずから
よしなやと面白や
空即是色

等々と並んで,伊藤仁斎,国木田独歩,柳田國男,夏目漱石,森鴎外,清沢満之,正宗白鳥等々を通して,探っていく試みは,ちょっとっ面白い切り口に違いない。なにせ,無意識に,

「~することになりました。」

と使っている言葉に,言外に逃げがあることを,意識している人はいないであろう。成り行きで結婚したのだから,成り行きで,「別れることになりました」と,しれっとして言えるのである。それは,「戦争することになりました。」とも「人を殺すことになりました。」とも言い替えていけるのである。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/402142102.html

でも触れたが,「仕儀」は,「おのずから」を言外に含んだ,重宝な言葉だ。「戦争する仕儀になりました」は,言外に何か理由がありげに,ただ成り行きでそうなったと言っているだけのことだ。

「おのずから」を,自然のルビに使うことがある。自然は,natureの訳語に当てられる前は,「じねん」とも呼び,

おのずからそうなっているさま
あるがまま,
人の力では予測できないこと

「殊更らしいことを嫌っておのづからなところを尊ぶ」

という言い方,あるいは西田幾太郎の,

「無心とか自然法爾(じねんほうに)とか云ふことが,我々日本人の強い憧憬の境地」

という言い方をしてきた。しかし,それは,親鸞においては,

「こちら側の『みずから』のはからいは,決して阿弥陀の『おのずから』の働きと重なるものとしては受けとめられていない…。」

それを,著者は,こう,読み解く。

「『己を尽す』べく『みずから』の『無限の努力』が要請され,しかもそれ自体が『自己のものではない』『おのずから然らしめるもの』なのだ,という異様な論理がここにはあるだろう。(中略)親鸞において厳密にしかも繰り返し注意されている。つまり,『現実』はどこまでも『絶対』と区別されながら,かつ『相即』するものとして捉えられているのである。『即』とは,そうしたきわめて微妙な『あわい』としての『即』なのである。『おのずから』は,『そとから自己を動かいのではなく内から動かすのでもなく自己を包むもの』なのである。」

自分が信ずることは,おのずからのしわざである。しかし,おのずからのせいにゆだねるわけでもなく,だからこそ,祈るべく尽力する,という感じであろうか。

それは,清沢満之の,

「我等は絶対的に他力の掌中に在る」

という言い方と重なる。そこには,自分の意志で結婚するのだが,大いなる何かに動かされての縁としての結婚だというニュアンスが,ある。もしそこに,自分の努力や意志を前提にしなければ,ただの成り行きにまかせになる。

道元は,「生死即涅槃」「煩悩即菩提」という言い方をしたが,

「道元の説く,その『即』は,決して無媒介な連続性・同一性をいみするそれではない…。座禅という修行を介さないかぎり,その『即』は現成しない。しかしかといってそれは,修行を経て覚証に至ればそうであるという意味の『即』に限定されるものではない。証は修行を経てその結果として到達するものではなく,端的に修行の実践そのものの,瞬間,瞬間においてのみ証せられるものなのである。」

と。この,「即」が「あわい」である。一元論の思い込みでも,二元論でもない。しかし,これは,堕すれば,無責任に陥ることは,必然である。修行,尽力抜きで,

「~になりました」

という時代に,いま,いよいよシフトが甚だしい。

清沢満之のように,

如来がいるから信ずることができるのか,人間が信ずるから如来がいるのか,

という問いをもつことの重要性は,そこに在るような気がする。

参考文献;
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)






今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:18| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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