2015年03月17日
罪悪感
少し前のことになるが,
「人を探求する」ワークショップ,第7回「罪悪感から解放される」
https://www.facebook.com/events/738047502969754/?pnref=story
に参加した。正直言って,罪悪感という言葉は,あまりピンとこなかった。
悪いな,
といった負い目なら,一杯ある。しかし,そう後を引くこともないので,気にはしないできた,という感じだろうか。
あるいは,
もうしわけない,
とか
後ろめたい,
とか,
引け目,
とか
心苦しい,
とか
やましい
とか
後ろ暗い
というのが,まあ日本語的に言うと,該当するのだろう。引け目と後ろ暗いでは,差が大きすぎるが,その意識の幅ということなのだろう。
もう少し丁寧に整理するなら(ネットの類語では),罪悪感は,
不道徳な行いに伴う恥の気持ち,
で,それに対して,
若干の罪に対して責任があると感じての自責の念
を,
罪責感
と,区別しているが,その類語で言うと,
人の道に背いているという感覚としての,
背徳感・罪悪感・後ろめたさ・疚しいところ,
と,
自らの犯した罪を後悔したり,それに劣等感を覚えたりする念としての,
負い目・引け目・悔悟・悔恨の念・やましい・うしろめたい・申し訳ない,後ろ暗い・心苦しい,
と分けていた。
少し罪悪感というと,強い感じで,宗教上,法律上,道徳上の不正という感覚になるのかもしれない。その辺りが,ちょっと違和感を感じた背景だろう。
さて,一般には,罪悪感は,
罪をおかした,悪いことをしたと思う気持ち,
という定義だが,このワークショップでの定義は,
罪をおかした,悪いことをしたという思い込みがあることで,自分を非難,糾弾する,
とする。「思い込み」で,自分を「非難,糾弾する」ことで,自分が落ち込んだり,萎れたりすることの方に焦点を当てている,ということになる。
僕は,このワークショップを通して気づいたことは,罪悪感として,自分を責めるというよりは,多く,
後悔,
として,
しまった,
こうすればよかった,
というカタチで感じることが多い。では,そこで自分を責めるかというと,必ずしもそうならず,次には改めようと,無頓着かもしれないが,けりをつけてしまうことが意外と多い,ということだ。
もうひとつは,例えばの話,年下の友人と飲みに行ったとして,年上だから奢らなくては,と思いつつ,割り勘ですましたとしよう。この場合,「年上だから,こっちが奢らなくては」というのが,このワークショップで言う,「思い込み」に当たる。そこで,しまったなと悔いるか,自分に引け目を感じて責めるかの分かれ道だが,僕は,
悪かったねっ,奢らない情けない先輩で,(誰が)
と(相手の言葉(と思っていること)を言語化して),ひとり突っ込みを口にすることで,自分の思い込みと,自分の引け目を,オープンにさらけだして,ごまかす,というか,照れ隠しをしてしまう,ということがある。
奢らなくてすまないね,
といえば,フランクなのだろうが,紙一重で,ジョークで紛らす,という感じだろうか。
奢らなくて悪いか,
といえば開き直りでいやみだし,そこを,微妙にずらして言う。
このあたりは,アサーティブで言うなら,
年上の僕が誘ったのに,奢らないのか,と思っているだろうがね,
とフランクに言うか,
誘っておいて悪いが,割り勘でね,
というところだろう。この辺りは,
怒る,
のと,
怒っていると伝える,
こととは,違う,というのに似ている。「怒る」のは怒りの表出だが,「怒っている」と伝えることは,感情の表現になる。そのままフランクではないにしろ,一人突っ込みをすることで,相手には,勝手に引け目を感じているんだな,と間接的には伝えていることになる。
何にしろ,言語化することは,それによって,自分の感情や対象に距離を取ることだ。距離を取ることは,それに押しつぶされていた視界を外に開く。さらに,それによって,コミュニケーションの土俵を開いたことにもなる。
だからこそ,紙一重なのだろう。
怒りの表現については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163015.html
で触れたし,アサーティブについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395253856.html
で触れた。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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