2015年03月18日
きいたふう
「きいたふう」は,
利いた風
と当てるか,
聞いた風
と当てるかで違う(『広辞苑』)。同じく,
「きいたふうなことを言う」
でも,
「利いた風」なら,
気が利いていること,
になるし,
「聞いた風」なら,
いかにも物事に通じているように気取ること,
知ったかぶりで生意気なこと,
つまり,
なま聞き,半可通,
になる。しかし,どうも,どちらに当てても,
さも知っているような小生意気な様子,
を指して使う,とある(『語感の辞典』)。「風」が,そのニュアンスだから,「気が利いている」風であり,「知っている」風なのだろう。
ただ『語感の辞典』には,「古めかしく」とあり,
大学生にも通用しなくなった,
とある。昨今大学生は,知性のモデルではなく,病だれの「知性」の方だから,大学生が使わないからと言って,世間一般とは言い難い。むしろ「大学生にも」ではなく,「大学生には」なのではないか。
閑話休題。
語源的にも,
「利いた(ためした,物事に通じている)+風(様子)」
とあり,
わかりもしないのに,わかったような生意気な態度をする様子,
とある。
子曰く,道を聴きて塗(みち)に徳は,徳をこれ棄つるなり,
というのがとっさに浮かぶ。
衒う
というのがこれに当たるのだろう。「衒う」は,
(「照らふ」の意)かがやくようにする,見せびらかす,
という意味になる。「衒」の,「玄」は,
細くて見えにくい糸をあらわす,
といい,よく見えない,曖昧であるという意をもつ。「衒」は,「行+玄」で,
相手の目をごまかして,真相が見えないようにする行いのこと,
とある。だから,意識して,そうしている,という意味では,
すかす
とか
虚飾
とか
見栄
とか
体裁ぶる
とかに近い。顔や身なりを装うのと,知性を装うのとの違いに過ぎない。
類語は,
見識張る
というのが近いが,
曲学阿世
となると,追従にシフトしているので,若干ずれる。
管を以て天を窺う
とか
小知を以て大道を窺う
となると,井の中の蛙で,自覚していないから,さらにずれる。
おのれの分,
ということを意識する。つまり,
分け与えられた性質,地位,身のほど,力量,
の意味だ。天分,性分,分際,身分,分相応,という使い方をする,「分」である。「分」の字は,
「八印(左右にわかれる)+刀」
で,二つに分ける,意。
何と分けたのか,
何から別れたのか,
を考えるとき,知とは,世界から別れたことだ。しかし,見えている世界は,その別れ方,つまり,距離の取り方で異なる。同じく,全体の部分である,といっても,地上に立つのと,月から地球を見るのとは違う。
分を弁える,
とは,そういう意味だと思う。その距離が見えているかどうかが,聞いた風かどうかの別れ道なのだと思う。
由(子路)よ,汝に知ることを誨(おし)えんか。知れるを知るとなし,知らざるを知らざるとせよ。これ知るなり。
である。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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