2015年03月19日
狷介
狷介とは,
頑固で自分の信じるところを固く守り,他人に心を開こうとしないこと。またそのさま。片意地。
と,一般の意味。『広辞苑』をみると,
「『狷』は,頑固,「介」は堅いこと。現在は多く悪い意味で使う,
と断りがあって,「固く自分の意志を守って人と妥協しないこと」という意味を書いている。確かに,狷介は,あまりいい意味には使わず,どちらかというと,とげとげしたと取り付く島のないイメージがある。しかし,『大言海』には,
「人の,おのれが分を守りて,不義をせざること,介は,精神の堅固にして抜くべからざること」
とあり,「人の性質に,頑なに志を執りて,情を容れず,聊かなる,不義,不正をも敢えてせざること」と,どちらかというと,志操堅固の意味が強い。
「狷」の字は,
「小回りしてせかせかとはしる犬,また小さく枠を構えて,その外へでないこと」
という原意があるようで,性急とか,片意地とか,鋭い,といったどちらかというといい意味を持たない。まあ,
心が狭い,
というニュアンスである。「介」の字は,
「人+八印(両脇にわかれる)」
で,両側に分かれること,とある。さらに,両側に分かれることは,両側から中の物を守ることでもあり,中に介在して両側を取り持つことでもある,という。だから,
はさむ(「介意」)
仲立ちをする(「仲介」)
助ける(「介助」「介護」)
両側から挟んで身を守るよろい(「介冑」)
鎧や殻のように固い(「耿介」耿)
両脇から孤立するさま,転じて大きい(「介立」)
ひとつ(「一介=一个」「一介」)
という意味になる。どちらかというと,挟んで仲立ちする意味なのに,「狷」と一緒になると,「堅い」とか「孤立」の意味が滲んでくるようである。『論語』の,
中行を得てこれを与にせずんば,必ずや狂狷か,狂者は進みて取り,狷者は為さざる所有るなり,
でいう「狷」は,
潔癖で強情な偏人,
と,貝塚茂樹注にある。中庸をベストとする孔子には,
中庸の徳たる,それ至れるかな,
という言葉がある。中庸とは,
偏らず常に変わらないこと,
とある。不偏不倚で過不及のないこと,
ともある。語源的には,「中(なかほど)+庸(かたよらない)」で,
物事の中ぐらいの節度を守る
ともある。
「中」とは,
もともと,旗竿を枠の真ん中に突き通した姿を描いたもので,真ん中の意。「突き通す」の意味があることを忘れてはいけないようだ。だから,
「決して過不及の中間をとりさえすればよいという意味ではない。」
ではないので,中途半端や足して2で割るというものではないようだ。そんな意なら埒もないことで,わざわざ言うに値しないだろう。
「庸」の字は,棒を手に持って突き通すこと。「通」と同じく,通用する,普通のという意を含む,とある。「通」の,「用」は,「卜(棒)+長方形の板」の会意文字で,「棒を板に通したことを示す会意文字。これに人を加えた「甬(よう)」は,人が足でとんとんと地板を踏み通すこと。「辶(足の動作)+甬」で,途中でつっかえ止まらず,とんと突き通ること,という意。
こうみると,実は,中庸は,それほど簡単ではない。貫き通す真ん中の位置が,常に通用するとはかぎらない,それでもそれを貫くから,
一以て貫く,
となるのだろう。現実と妥協しながら,生きていく人から見れば,それが時に頑なで頑迷固陋に見えるはずである。
四文字熟語の,
狷介固陋(かたくなに自分の意志を守って,人のことを受け入れないさま)
狷介孤高(自分の意志をかたくなに守って,他と協調しないさま)
というのも,その辺りの微妙なニュアンスを含んでする。僕には,儒学者・横井小楠の,
彼を是とし又此を非とすれば
是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け
心虚なれば即ち天を見る
心虚なれば即ち天を見る
天理万物和す
紛々たる閑是非
一笑逝波に付さん
等々の詩は,そういう含意を持って,是非の二者択一ではない視点をいつも持つことを言っている。だから,勤皇派からは佐幕派に見え,佐幕派からは,勤皇派に見える。
人の生きるや直し
というのは,そういう貫いた軌跡を指しているに違いない。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
野口宗親『横井小楠漢詩文全釈』(熊本出版文化会館)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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