2015年03月22日


目の前を妨げるものの喩えとして,



という言い方をする。目の前を遮る,あるいは,おのれの超えられない境界の喩えとして使う。

壁を,辞書で引くと,

家の四方を囲い,また室と室の隔てとするもの。ことに塗壁,すなわち下地をわたし,木舞(こまい)をかき,土を塗って作ったものを言う,

とあり,その他に,

(壁を「塗る」と「寝(ぬ)る」とをかけて)夢。
(女房詞,白壁に似ているところから)豆腐,おかべ,
登山で,直立した岩壁,
障壁,障害物
吉原の女郎屋の張見世(はりみせ)の末席(壁際),新造女郎が坐った,
近世後期,江戸で野暮,無粋を言った,

と並ぶ(『広辞苑』)。まあ,正真正銘の壁から,ものの喩えに移っていくのがよくわかる。

壁と見る,

というのは,野暮と見なす,つまりは軽蔑する意だが,

壁に馬を乗りかける,

というのは,無理押しを指す。この言い方がなかなか粋である。

閑話休題。

ここでは,

壁に突き当たる,

を言いたいために,遠回りした。何せ,障害というか,押しても引いても,動かない,まさに,二進も三進もいかない状態である。しかし,壁を無視すれば,問題と同じで,なかったことで過ごせないわけではない。

「かべ」というのは,語源に,

「カ(処)+ヘ(隔)」,場所の隔ての意味

「カキ(垣)+へ(隔)」,建物の周りや内部の仕切りの意

の二説があるらしい。漢字の「壁」の原字は,

「辟」

で,薄く平らに磨いた玉,表面が平らで,薄いという意味を含んでいる。で,「土+辟」は,

薄くて,平らなかべ,

の意らしい。「牆(しょう)」が,家の外を取り巻くながい「へい」で,それに対して薄く衝立式のを「かべ」を言ったらしい。それがのちに,家の内外の平らな「かべ」を言うようになった,という。ちなみに,「牆」を調べると,「爿+嗇」で,「爿(しょう)」は,「木を両分せし形,片の対」とある。「檣」は,「麥+作物をとり入れる納屋」からなり,収穫物を取れ入れる納屋を示す。「牆」は,納屋や蔵の周りに作った細長いへいをしめす,という。

壁というのは,

スランプ
とも
凹む
とも
落ち込む

というのとも,違う気がする。凹むや落ち込むについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410104152.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163424.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/398404438.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163576.html

等々,何度か触れた。スランプは,誰かの台詞ではないが,一流のスキルや技量の持ち主がなる,一時的な不調,不振なので,僕のようなものには,あまり関係がないが,いずれも,内的な要因である。つまり,心理的にか,技術的にか,ペースダウンの状態である。しかし,壁というのは,主観的なものであることは同じだが,

いまの自分にとって大きな障害,ハードル,

がある,と感じていることだ。多く,才能や技量という内的なものが,外の障害に跳ね付けられて,そう感じるという意味では,実は,いまの自分の力量にとっては,階段を昇るようには,越えられないハードルと感じている,ということだ。仮に,外からの手助けがあるとしても,そのステージの力量が満たなければ,また別の壁にぶつかるだろう。

壁は,何かにチャレンジしなければなく,ただの見晴るかす視界があるだけだ。何かにチャレンジしようとするものにだけ,そこに壁が見える。しかし,結局,それは,外に在るのではなく,

自分の内の限界意識,

が作り出す,影に過ぎない。しかし,その限界意識は,主観的に,作り出しているものではない。具体的に次のステージに上れないという事実が突きつける壁である。自覚的なものであると同時に,現実的なものでもある。たとえば,才能,というとき,それは,主観的だが,その差は,歴然として,客観的に在る。世の中は,多く,ステージごとに住み分けているから,同じプロフェッショナルと言いながら,あるステージからは相手にされないプロだってある。そのとき,差は,主観的ではなく,客観的にある。

ただ,思うのだが,その自分が直面している限界を,顕微鏡で見るか,遠眼鏡でみるかによって,壁の見え方が変わる。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/399787014.html

で書いたように,どつぼにはまった状態と同じく,その嵌りきった凹みというか,壁そのものと真正面に向き合った立ち位置から,距離を取って,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/413585389.html

で書いたことと重なるが,自分を俯瞰できる立ち位置に立てられれば,その壁の見え方も変わるかもしれない。

ただ,それは壁がなくなったわけではない。壁があるという事実を消すわけではないので,その突破口が,というより,

迂回路,

というべきか,まだチャレンジする経路が見える,というだけのことに過ぎない。

それを慰めとするか,諦めとするか,元気づけとするかは,その先どうするかの決断次第,ということに尽きる。








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:39| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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