2015年03月25日

冤罪


三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』を読む。

江戸時代初期,江戸が繁華になるに従って,「大草履組」「小草履組」と名のる泥棒が集団で,跋扈したらしい。それが無くなったに当たっては,慶長十三年(1608)にできた,本丸,二ノ丸,三ノ丸,西丸といった内曲輪に加えて,寛永十三年(1636)に,外曲輪ができ(これが総曲輪),それとともに,山下門,幸橋門,虎ノ門,赤坂,四谷,市谷,牛込,小石川,筋違,浅草,に郭(かく)門ができたことが大きいらしい。

「江戸の警備の上には,なかなか大きな事柄だった…。」

と鳶魚は語っている。いまは,「赤坂見附」という名前が残っているが,見附というのは,

「城の外郭に位置し,外敵の侵攻,侵入を発見するために設けられた警備のための城門」

のことで,江戸城には外濠および内濠に沿って36の見附があったとされている。しかし,「江戸の見附は,そんなに多いものではない」らしい。延享期(1744~47)にできた『江戸惣鹿子』などでも,31しかない,というが,ともかく,これによって,外敵への備えができた。さらに,寛永八年(1631)からは,町奉行所ができ,

「これ以後は,おおきな泥坊になると,江戸回りを舞台にする。江戸の中を舞台にして踊ることはできなくなった。」

ということだ。しかし,なかなかそうはいかないのは,江戸の町が,どんどん人口を吸収して拡大していったからで,元文期(1736~40)になると,どこまでが江戸で,どこからが田舎であるかがわからなくなった。

で,明暦の大火(いわゆる振袖火事)以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため,寛文期(1661~72)に,初めて火付盗賊改を置く。そして天和三年(1683)に,加役というものができ,御先手組のものが兼務するようになる(で,加役というと火付盗賊改のこととなった)。その最初の者が,中山勘解由である。

「火付盗賊改の方は,町奉行の方の与力・同心と競争の心持があって,手柄を奪い合うことは,後々まであった。後のことですけれども,町奉行所の方の吟味を『檜の木の舞台』といい,加役の方の調べを『オデデコ(御出木偶)芝居』といっている。そこで功をあせるから,早く白状させようともすると,どうしてもこうしても罪にしなければならぬという気持ちもある。うまくゆくこともあるし,また失敗もある。」

と言っているが,当時の人も,かなり酷評しているらしく,

「怪しむべきでもないものを縛っているのも多いようである。調べが厳しいので,言わないうちは死ぬまで責める,というやり方だから,どのみち助からぬというので,目前の苦を逃れるために,罪を認めてしまう者がある,通り者とか,博打打ちとかいう者が,勘解由のために押さえられて,島流しになったものがたくさんいる」

という状態である。そんな逸話の一つが,無宿の伝兵衛が,火付けをしたというので,市中引き回しの上,一日晒し,火あぶりの刑になることが決まっていた。しかしその高札にある犯行時に,「数珠屋にまだ弟子奉公をしていて,火事の当日は,主人方にいた」という噂が広まった。

それを南町奉行所の大岡越前守の手附同心中山五右衛門・小川久兵衛が聞き出し,大岡越前守に上申し,それに基づいて,月番の北町奉行所へ通達したところ,北町奉行の諏訪肥後守は,早速刑の執行を中止し,改めて詮議をし直した,という。

現在の冤罪事件と構造がよく似ている。

きっかけは,火付盗賊改方の目明しが,夜見回りの最中に,土蔵のところで寝ていた胡乱な男をつかまえ,いろいろ脅し,言わなければ拷問してでも言わせる,と脅されて,ちょっと「たわけ者」のところがある伝兵衛は,やってもいない罪を認めたということになる。

現在の裁判よりすごいのは,そうして詮議し直した結果,目明しが死罪,掛りの火付盗賊改方の同心は,役を召し放されて,閉門の処分となった。きっかけを作った二人の同心は恩賞を置けた,という。実は,この後がある。

「(この件に)一番驚いたのは幕閣でありまして,罪もない者を極刑に行うようなことがあっては大変だというので,
老中の松平左近将監は,…命を両町奉行所へ伝えました。それは,無実の罪で極刑に行われようとした顛末を触れに書いて,町の辻々へ貼らせた。その末に,今後重罪の者はもちろん,小さい罪の者であっても,科なき者が科に行われるような場合には,親類身寄りの者から,御仕置以前に遠慮なく再吟味を願い出るように,ということであります。」

DNAで明らかに冤罪とわかっていても,死刑に処せられたものが,名誉回復さえされない現代と比較しても,為政者の姿勢の格差に,愕然とする。どちらが近代的なのであろうか。

結構成物 日光の彫物と大岡越前守

という当時の「物揃」にあり,「頭尽」に,

役人の頭 大岡越前守

と,越前守の評判が高いのも,『大岡政談』という講談が,必ずしも,見てきたような噓でない証である。しかし,それ以降,他の名がないのは,際立た例なのかもしれない。

ただ,「親族身寄」まで広げて再審を願い出られるようになったのは,

「随分思いきった拡げ方だと思います。親類だけでなしに縁類を加えたのが,なかなか目立って見える。それですから,てきめんに再審事件が出てきてもおります。」

という次第で,実際に冤罪が晴らされた例がある。

どうも犯罪というのには,時代を映しているところがあるらしく,享保期(1716~35)になると,武家も町家も,奉公人に,渡り奉公人が増え,一季半季で,次々と奉公先を変えていく。その間に,

「取り逃げするとか,前の主人のところへ忍び込んで泥坊するということが多かった。」

という。その当時から,「請宿及び戸籍制度」をしっかり立てていないのがいけない,という議論があった,という。身許というのは,人別の確かだったらしい江戸時代ですら,江戸というのが,東京と同じく,大都会でということが分かる。なにより,人で不足なのである。

そんな使用人の犯罪で締めておく。ある商家に縁付いて,お産で亡くなった女性の弔いもすんだ雨の夜,

「あたりも静かになった時分に,亭主のおります座敷の窓から,死んだ女房が覗き込んで,私のもっていた小袖の中に,何々の模様のがある,あれは平生から気に入って秘蔵していたものだが,死んでみると,それを娑婆に置いてゆかなければならぬ,そのことが忘れられないために,冥路の妨げになり,六道の辻にも迷うわけである,どうかあの小袖を渡してもらいたい,と言った。亭主もそれを聞いて,なんだか不憫になってきた。」

幽霊が出たのを不審とは思ったが,小袖を渡した。すると,また少しして,同じように幽霊が出てきて,今度は箪笥の中に真金一両を使い残しておいた,それをくれ,というに及んで,亭主もおかしいと思い,小判を持ってでて,女が窓越しに手を伸ばしたところをつかまえて,押さえつけた,という。よくみると,それは,死んだ女房が嫁に来るとき,里付に来ていた女であった,という。

「都合のいいことには,昔の幽霊は足があったので,幽霊の足が無くなったのは,尾上松緑以来の話です。」

とは,オチである。文化年間,尾上松緑が『東海道四谷怪談』を演じるにあたって,凄味のある演出として,幽霊の足を隠して,人魂といっしょに登場するという手法はないものかと考えた,という。それまでの日本の幽霊には足があったそうである。

参考文献;
三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)





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posted by Toshi at 05:11| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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