2015年03月26日

取締り


三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』 を読む。

奉行所は,南北二ヶ所(元禄期,短い間中町奉行所)があった。奉行所は,裁判だけでなく,捕物出役に出かけていく。老中の下知で,例えば慶安の変での丸橋忠弥捕縛のような例の他に,取籠り者があるとの訴えによっても出役する場合がある。

その場合,当番与力一人が,同心一人を連れて出役する。継上下(つぎかみしも)で出勤している(のちには,羽織袴に変るが)与力は,着流しに着かえ,帯の上に胴締めをし,両刀をさし,手拭いで後ろ鉢巻をし,白木綿の襷にジンジン端折り(着物の背縫いの裾の少し上をつまんで,帯の後ろの結び目の下に挟み込む)する。槍を中間に持たせ,若党二人に草履取り一人を従えている(本来一騎二騎と数えるが,いつのころからか馬に乗らず槍一本持たせるだけになった)。

「供に出る槍持は,共襟の半纏に結びっきり帯で,草履取は,勝色(かちいろ)無地の法被に,綿を心にした梵天帯を締める。供の法被は勝色で,背中に大きな紋の一つ就いたのを着ている。」

与力は,御目見え以下でも,一応御家人という身分である。ひとりで歩くということはない,ということである。

「同心は羽織袴ででておりますが,麻の裏のついた鎖帷子を着込み,その上へ芝居の四天(歌舞伎の捕手)の着るような半纏を着ます。それから股引,これもずっと引き上げて穿けるようになっています。」

という身なりである。さらに,小手・脛当,長脇差一本(普段は両刀だが,捕物時は刃引きの刀一本),鎖の入った鉢巻きに,白木綿の襷,足拵え,という格好になる。供に,物持ちがつき,紺無地の法被に,めくら縞(紺無地)か,千草(緑がかった淡い青)の股引きを穿く。

刃引きの刀に差し替える,ところが味噌なのだろう。その辺りをリアルにやっていたのは,『八丁堀の七人』というテレビドラマであった。

で,町奉行所の前に呼び出されると,奉行から,与力に「検使に行け」と命じられ,同心には,「十分働け」と言い付ける。さらに,桐の実を三方に載せて,各々水杯をする。与力は,一番手,二番手と捕物にかかる順序を定め,町奉行自身,表門を,八文字に開かせて,出役一同を表玄関まで見送る。

与力と同心の,この身なりの差は,

「与力は…,決して捕物に手を下さない。槍を持たせていくのは,同心の手に余った場合,その槍で敵を弱らせて逮捕の便利をはかるためで,傷つけたり殺したりすることはありません。まったく同心援助のためであります。」

という。

町奉行所は,月番で勤務につく。同心は,三廻りといって,廻り場をきめて巡回させる。三廻りは,

隠密廻り
定廻り
臨時廻り

月番だと,新しい仕事を引き受け,非番は,前の月に受け付けた事件を片づける,ということになる。

まあ,例の仕事人の中村主水の,定町廻りは,月番でも非番でも,毎日出る。江戸市中をおおよそ四筋にわけ,代わりあって巡回する。

「廻り方は竜紋の裏のついた三つ紋付の黒羽織,夏なら紗か絽です。暑い時分には菅の一文字笠,寒天とか風烈とかには頭巾を用いるが,概して冠り物のない方が多い。そうして,御用箱を背負わせた供と,紺看板,梵天帯に,股引,草鞋で,木刀一本さした中間が一人,そのほか手先が二三人ついております。」

こういう一行が巡回しているのである。テレビや映画のように,一人でうろうろするわけではない。

江戸には,自身番と辻番というのがある。辻番は,武家地にある。自身番は,町家に江戸中で三百位ある。自身番は,大道に面したところに,九尺二間の建物で,巡回の度に,同心が声を掛けていく。

自身番は,書役が雇われて通っていて,多いところで三人,夜も人が詰めている。

その意味で,江戸は,木戸番がおり,自身番があり,辻番がある,という防犯の仕組みにはなっていた。発祥はともかく,交番が,日本になじめたのは,この辺りに原因があるのかもしれない。江戸の町々には,木戸があり,木戸番がいて,夜の四ツ(午後10時)に締めてしまう。後は,潜りから出入りさせ,怪しい者が通ると,木戸番が拍子木で次の木戸番に知らせた。

八丁堀の同心には,「背中に胼(ひび)をきらせた」という言葉があったという。まあ,いまの刑事だと,靴を履きつぶすというのに近いか。多く,十二歳から見習いに出て,二十年,三十年の功を積まなければ,廻り方までになれない。

「炎天,寒夜の嫌いなく,雨風に吹きさらされて苦労する。廻り方と言って威張る頃までには,背中に胼(ひび)もきれましたろう。そういう苦労をして,大勢の囚人を取り扱っておりますから,廻り方にぼんくらな奴はいない。自分の仕事にかけては,随分功名を急いだところもありましたが,滅多に捕り違いとか,調べ損ないとかということはありませんでした。」

という。そこが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416204136.html?1427227894

で述べた火付盗賊改との違いなのかもしれない。

「牢へ入れるというのは軽いことではない。いかに相手が町人どもでも,容易ならぬことでありましたし,また,牢屋の方にしましたところで,いかに定廻りが召し捕ったものであるにしても,入牢証文というものがなければ,伝馬町では受け取りません。入牢証文は,同心が調べて,すぐに同心の手でこしらえる,というような造作のないものではない。……廻り方は,囚人を大番屋に預けおいて,夜分になりましても,すぐに奉行所へ取って返して,一件書類を出して,入牢証文を請求するのであります。…町奉行の御用部屋…手附の同心…へ一件書類を出しますと,それが吟味方へ回る。吟味方のほうでは,その書類を見ました上で,御用部屋から出た入牢証文を当番方へ渡す。それから,その入牢証文が伝馬町…に渡される。」

という次第で,ほぼ一日を要する。大番屋に預けられていた囚人は,町役人に付き添われて,牢に入れるのだが,そのとき,吟味方の与力がひと調べして,入牢と決まれば,嫌疑から刑事被告人に変る,のだという。

吟味を受けると,出来上がった調書に拇印を押す。口書・爪印がすむと,奉行の申し渡しになる。

「御奉行様の御白洲というものは,一つの事件について二度か三度のもので,大概三度目は申渡しになる。それは吟味方の方で十分吟味をととのえて,口書・爪印を済ませまして,御用部屋手付の同心が擬律(ぎりつ)までして,申渡しの文句も整えてある。御奉行様は駄目を押せばいいのです…。」

というわけだ。それにしても,整った官僚組織という印象がある。その中で,前回,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416204136.html?1427227894

で触れたように,冤罪を発見して,それを覆せるというのは,組織の柔軟性というか,トップの裁量の余地が大きいという気がしてならない。もちろん,そうではないケースも多くあったようではあるが,同じ官僚機構ではあっても,今日裁判制度が硬直しているのが,かえって鮮明に見えてくる。

元来が御先手組という,戦時の先方をつとめるという軍役の名残りで,荒っぽいことで悪名高い火付盗賊改も,制度が整うにつれて,少しやり方が変わる。宝永二年(1705)から五年までこの役にあって,勘定奉行に栄転した平岩若狭守という人は,懇意だった所司代松平紀伊守に,「まず三奉行に相談を遂げる」と語り,死刑と決まった者にも,

「その前日に呼び出して,今度おまえの犯した罪は,どうしても死罪を免れ難いものであるが,今まで申し述べたほかに,まだ何か申し開く筋がありはせぬか,その辺りのことを十分考えて申し立てるようにしろ,百に一つも申し開くことがあれば,また取りはからい方もあるから,と言って聞かせます。」

と。さてさて,結局制度を生かすも殺すも,人だということがよくわかる。

加役(火付盗賊改の)は述べ135人,そのうち三人罰せられているが,多くその処断に瑕疵があった場合だが,冤罪以外に,闕所処分にしたケースで,所有財産を売り払って幕府の御金蔵におさめる決まりだが,中根主税という加役は,遊女まで売り払った。それが科条になり,八丈島へ遠島処分になっている。

いろいろ毀誉褒貶はあっても,この辺りの仕置きをみると,いまの為政者に比べて,遥かに骨がある。

参考文献;
三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:47| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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