2015年03月28日

徹底


徹底的,

という言葉を,随分昔,

テッテ的,

と言い換えるギャグ(というか風刺)があった。つげ義春が『ねじ式』で使っていた記憶がある。そういう雰囲気があった時代が確かにあった。いまや,ドイツの公共放送ZDFが,日本政府と原子力産業を「情報隠蔽と改竄の常習犯」と報ずる時代だ。テッテ的とは程遠い。

だから,先日来日した独のメルケル首相が安倍首相に,慰安婦問題は過去を踏まえてきちんと解決をと何度も言ったそうだが,安倍首相は,最後に「内政干渉だ」と怒り出した,という。そういう国とそういう時代に,わが国のありようは,この何年かですっかり変わってしまった。「八紘一宇」が,この国の国会で,堂々賛美されるところにまで,今日来てしまった。

さて,徹底とは,

其処まで貫き通ること,
残る隈なく行き届くこと,
ある一つの思想・態度を貫くこと,

という意味だ。そのほかに,

蘊奥に達すること,

という意味もあるようだ(『大言海』)。

徹底は,日本語源にはない。中国由来,

「徹(とどく・とおる)+底」

が語源。中途半端ではなく,どこまでも押し通す。それは,どうも日本流儀では,かつても今もない,らしい。

それで思い出した。肥後の神風連(しんぷうれん)太田黒伴雄(大野鉄兵衛)の師となる(同じ勤皇党の川上彦斎にとっても師となる),原道館・林櫻園は,

兵は怒りなり,

と言い,攘夷論の盛んであった時期,

国を焼き尽くしてでも、夷狄と徹底的に戦うべきだ,

と主張した。攘夷論に,そこまでの覚悟を持った主張はなかった。それは,

「我国太平久しく、軍備廃頽し、軍器の利鈍、彼我比較にならない。戦わば敗を取るのは必至だ、しかし上下心力を一にし、百敗挫けず、防御の術を尽くせば、彼皆海路遼遠、地理に熟せざるの客兵である。かつ何をもって巨大の軍費を支えん。遠からずして、彼より和を講ずるは明々白白の勢いではないか。もし、一度彼が兵鋒を頓挫すれば、我国威は雷霆の如く、西洋に奮うべし。」

その戦いを通してしか、おのれの日本人としての背骨は通らない,その背骨なくして,世界に伍していくことはできない,という趣旨であった。そこにあるのは,完膚なきまでに,旧弊を灰燼に帰せしめる,という荒療治だ。こうした徹底論は,妥協派というか,現実派の前に,狂気として葬りさられる。言うところの,

焦土灰燼に天佑あり,

は,所詮妄想に過ぎない,と言えば言える。しかし,何かを貫徹しなくては,新たな地平は開かない。

櫻園の対極にあるのは,同時代の,同じ肥後の実学党と呼ばれた,横井小楠である。

日本に限らず世界中皆吾が朋友なり。

と言い,二人の甥を龍馬に託して洋行させる折送った,有名な送別の詩,

堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
なんぞ富国に止まらん
なんぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ

に,小楠の思いの丈がある。僕はこの徹底した楽天主義が好きだ。これを,「とほうもない誇大妄想」(渡辺京二)という評言もある。しかしこれはこれで,現実的な処方箋は立つし,また小楠なら立てたであろう。

衆言は正義を恐れ
正義は衆言を憎む
之を要するに名と利
別に天理の存する在り,

小楠と櫻園とは,ちょうど真反対に振り切れる立ち位置だが,何れの立ち位置も,いまだかって日本はとったことは一度もない。

昨今の,過去と遂に(というか踏ん切り悪く)訣別できず,過去の亡霊を復活させているありようを見ると,絶望に駆られる。

「徹底ということは,底に徹することであるが,その『底』というものは,自己の限界であることは明白である。」

とは,悲惨を悲惨として,敗北を敗北として,焦土を焦土として,徹底的に受け入れることだ。それが本来の米百俵,

「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」

の精神のはずだ。

しかしわれわれは,230万人の戦死者(その150万人は餓死者)の他,2,000万以上のアジアの人々の戦争犠牲者を出したことについて,遂に主体的に,徹底して向き合うことはなかった。別にドイツが素晴らしいとは言わない。他国は,どうでもいい。是非はともかく,70年もたって,いまだ戦後処理が終わっていない(と他国に揶揄される),この体たらくは何だろう。関係国とのすべての交渉が終わっていない,という政治的未処理の
継続に70年もかかっていて,その処理を終える意志が全く見えないことに,呆れるばかりである。対米関係でも,この国土が電波,空域,原子力のすべてに対米従属状態(占領下とはあえて言わないが,しかしアメリカの許諾抜きでは自由に意思決定できない状態)であること自体,いまだ戦後処理は完了していない。その意味では,敗戦処理はほとんど終わっていない。しかし終わっていないことにすら,気づいていない,というか,認めていない。

ドイツのように,領土に固執するのをやめることが是,と言っているのではない。それは交渉事だ。しかし,主体的に,本気で戦後を処理し尽くす覚悟を,為政者も,われわれ国民も,しなかったし,しようとしていないし,多分することはないだろう,ということだ。決断とは,

何かを捨てることだ,

それは,金や物や土地とは限らない。おのれの面子を捨てることもある。しかし,

面子を捨てる,

ことは,

矜持を捨てる,

ことではない。おのれの体面を守ることで,かえって矜持を捨てていることに気づいていない。

どうやらわれわれは,徹底という言葉を,自国のことばとして,持っていないということだ,と思う。言葉は,自分たちの現実を丸めるところから生まれる。和語として,遂にそういう言葉を持たなかった。なぜなら,そういう振る舞いをしてこなかったし,していないから,それをあらわす言葉がない(のではないか)。

言葉は,その人の振る舞いを表す。

参考文献;
渡辺京二『神風連とその時代』(洋泉社)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:32| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください