2015年03月29日
決めつけ
「決めつけ」は,
極めつけ,
とも当てる。
咎める
とか
呵(しか)る
とか
叱責
という意味がある。辞書によっては,
厳しく叱りつける
一方的に断定する
と,ただ咎めるだけではなく,叱る側に,価値基準というか,判断要素というものがあって,それに基づいて,一方的に断罪する,というニュアンスである。
場合によっては,
勝手な判断,独断,
に近い。その判断基準に焦点を当てると,
思い込み,
偏見,
固定(既成)観念,
先入観(見),
ということになり,その是非は,
断定,
裁定,
であって,それ以外の考慮の余地はない,ということになる。決めつけられた側には,取り付く島のない状態となる。もし,会話の最中にそう相手から言われたら,たぶん,途中から相手は,耳を閉ざし,そうではない,ちがう,という自己対話に陥るのではないか。
同じ「きめつけ」でも,
「決め」という字を当てると,思い込んでいる部分に焦点が当たり,
「極め」に当てると,その限定された狭い先入主に焦点が当たる,
という気がする。。
「決」の字を構成する,「夬(かい)」は,
「コ印+又(手)+指一本」
の会意文字で,手の指一本をコ型に曲げ,物に引っ掻けるさま,またコ型に抉るさま。「抉」の原字。で,「決」は,
「水+夬」
で,水によって堤防がコ型に抉られること,がっぽりと切れることから,決定の意に転じた。だから,「決」は,
川の水が川の包をコ型にえぐっって切る(「決壊」)
ズバリ切ることから,きっぱり決める(「断(切る)」が判断の意に転じたのと同じ)
という意味がある。
「極」を構成する「亟(きょく)」は,
上下二線の間に人を描いて頭上から足先の端までの間を示し,それに人間の動作を示す口と又(手)とを加え,体の端から端までを緊張させて動作することを顕わす。「亟」は,たるまない,すぐに等々の意味を含む。
「極」は,
「木+亟」
で,端から端まで張ったしん柱,
の意。そう考えると,「決め」は,抉るような厳しさを示し,「極め」は,逃げ場のない感じになる。
自分が決めつけられたことがあるので,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163096.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/391125143.html
決めつけられると,追い詰められてしまうところがある。人は,多面的,多様な側面を持っているので,省みれば,なにがしか当たっていなくもない。だから,余計始末が悪い。
たとえば,運動したい,という人に,
運動しないと何が困るんですか,
という問いは,場合によっては,相手に,決めつけ感を与えるらしい。それは,運動していないことを咎めているふうでもあるし,その話題を出したこと自体を咎めているふうでもあるし,別にどうでもいいじゃないかと言っているふうにも聞こえる,つまり,その問いは,「運動」についての,聴き手側の先入観で,決めつけた問いになっている。
運動しないことで,何も困らないように思えるのですが,
とか,
(相手が主婦なら)主婦の人っていつも駆けずり回っているという印象があるんですが,
といったこちらの思考というか,発想の元そのものを洗いざらいオープンにすることで,問いの言葉の印象が変わるのではあるまいか。
言葉は,何かを丸めている。
問いも,考えている何かを前提にしなければ,出てこない。とすれば,問いには,問う側が,その問いを生み出した自分の思考の流れそのものをも含めてさらけださないと,相手の思考の文脈にはピタリ入らないことがある。
すべて,決めつけは,決めつけている前提をオープンにしなければ,決めつけられた側は,争えないのである。
「君はやる気がないのかね」
と決めつけられても,相手にそう見えていることは,こちらからはコントロールのしようがない。しかし,
「いつも遅刻しているから,僕には,君がやる気がないように見える」
と言われれば,争う余地が出てくる。論旨の因果の破綻や,事実が争える。
決めつけを避けることは出来ない。人は,自分の思考回路からしか結論は出せないから。しかし,相手に決めつけを争う余地を残さなくては,ただ意味なく追い詰めているだけだ。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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