忍
忍(しのび)というと,
『忍びの者』(村山知義)
や
『忍法帖』シリーズ(山田風太郎)
が思い浮かぶし,白土三平の『忍者武芸帳』というのも記憶にある。あるいは,テレビドラマの『隠密剣士』というのもあった。結構夢中になった記憶がある。いささか年齢がばれるが,そういったイメージとは裏腹に,確か,島原の乱の最中,幕府軍から放たれた伊賀者が原城に忍び込んだものの,相手のしゃべっている言葉がわからず,しかも発見されてほうほうの体で,逃げ帰るという醜態を演じた,というのも読んだ記憶がある。
もともと忍というのは,忍んでいるからこそであって,忍びでござい等々と名のるべきものではない。多くは,
乱波(らっぱ)
透波(出波)(すっぱ)
突波(とっぱ)
と呼ばれたり,
草
とか
伏
とか
かまり
と呼ばれたりする。三田村鳶魚は,
「乱波・出波は,少人数,数人あるいは一人でやる場合と,集団で用いる場合は,少し様子がちがう。普通の忍びは,戦時でないときに使うのだが,戦時は『覆』といって,これはだいぶ人数が多い。多ければ千人もに千人もになるし,少なくとも二三百人ぐらいはある。」
と言っている。山蔭に隠して,不意を襲うので,「むらかまり」「里かまり」「すてかまり」等々と呼ぶという。少人数を隠す場合,「伏」とも呼ぶ。「草」とも言う。
戦国時の戦いは,多く境界線,つまり「境目」で起きる。そのことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.html
でふれたが,その場合,「草に伏す」とか「ふしかまり」等々と呼ぶ。
記憶で書くが,織田信長が美濃攻めをしていたころ,まだ木下藤吉郎といっていた秀吉が頭角をあらわしたのは,ちょうどこの戦いにおいてであった。秀吉が三四百の足軽大将になったのは,永禄七年(1564)頃と言われる。秀吉の功は,多く境目での草入りであったと思われる。美濃方の諸将を調略していき,安藤守就,稲葉良通,氏家直元の西美濃三人衆を誘降にも功があった。その頃,蜂須賀小六,稲田大炊助,青山新七郎,松原内匠助,浅野又右衛門,前野将右衛門等々といった草創期の家臣や与力は,ほとんどが草入りとしての活躍と言っていい。
ということは,「草」というのがイコール忍というのではなく,「草」という敵領国を侵食していく戦術の手立ての一つとして忍があったと考えるべきだ,と思う。
山鹿素行は,桑名藩主松平越中守定綱のために『武教全書』を描いたそうだが,その中に,忍とは,「敵国へ往来させて,いろいろなことを探る」と書いてある由だが,この場合,ほとんどが,隣国,境を接している国と考えていいように思う。かつて,遠国,ことに中央のことについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413189714.html
で書いたように,連歌師がその役を果たしたというが,半端なものが探ってくる末端な情報より,それなりに中枢に伝のある人物の方が正確な情報を得られるからだ。,
『武家名目抄』の職名に,透波の説明があり,
「これ常に忍の役するものの名称にして一種の賤人なり。ただ忍(しのび)とのみよべる中には庶士の内より役せらるるもあれど,透波とよばるる種類は大かた野武士強盗などの中りよび出されて扶持せらるるものなり。されば間者(間諜)かまり夜討などには殊に便あるが故に,戦国のならひ,大名諸家何れもこれを養置しとみゆ。…(透波,乱波)の名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ,事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし」
とあり,関東では乱波といい,甲斐より以西では透波と呼んだ,とある。ただ,これは,江戸後期になって編纂されたもので,忍というものが,ちょうど家系図が整えられるように,ある程度整理された後の話で,伊賀組,甲賀組,根来組等々が,二十五騎組として同心としての地位を確立した後の話に過ぎない。
それを専門とするものが,伊賀,甲賀の他,紀州の根来,信州の戸隠等々にいたことは確かだし,修験道の盛んなところは,大概忍びに長じていた,という。間諜や敵地のかく乱をすることを,
細作
という言葉があるほどだから,常態としてあったことは確かである。ただ他国に入ると,方言というか,日常会話は異国の言葉のようにわからない。その意味で,伊賀の者が薩摩に潜入したって,すぐにばれる。そういうイメージは数が少ないのではないか,と推測する。
『政宗記』等々には,草の活躍のことか詳細に書かれているようで,たとえば,
「奥州の軍(いくさ)言葉に草調儀などがある。草調儀とは,自分の領地から多領に忍びに軍勢を派遣することをいう。その軍勢の多少により,一の草,二の草,三の草がある。一の草である歩兵を,敵城の近所に夜のうちに忍ばせることを『草を入れる』という。それから良い場所を見つけて,隠れていることを『草に臥す』という。夜が明けたら,往来に出る者を一の草で討ち取ることを『草を起こす』という。敵地の者が草の侵入を知り,一の草を討とうとして,逃げるところを追いかけたならば,二,三の草が立ち上がって戦う。また,自分の領地に草が入ったことを知ったならば,人数を遣わして,二,三の草がいるところを遮り,残った人数で一の草を捜して討ち取る。」
とある。これはもうゲリラ戦といっていい。この時,実は本当の情報戦である。草が入ったことを知る,あるいは,草が臥してあることを探知する,このための情報が不可欠である。
情報とは差異である。
という。違う言い方をすると,違和を感知する,といってもいい。
クラウゼヴィッツは,情報を得ることではなく,情報の彼我を総合する判断力で,指揮官の真贋が問われる,と言っていたように思う。「彼我の情報が互いに支持を保証し,或いはその信頼度を増大し合い,こうとて心のうちに描かれた情報図がますます鮮やかに彩色」されたときこそ,指揮官の力量が問われる。昔も今も,希望的観測を蓋然性と勘違いする,あるいはこうなるかもを,こうなるはずと置き換えて,意思決定を散々繰り返してきた,あの悲惨な敗北をもたらしたのに,昨今又その意思決定を繰り返しつつある。きちんと検証しないものに,きちんと未来を構想できるはずはない。
秀吉は,美濃への草入り中,先手の弟小一郎の部隊と離れた本陣を四五百の敵に襲撃を受けて,あやうい目にあった。草入りのときこそ,忍のもたらす情報は生死にかかわる。
草は,敵方への攻撃ばかりではなく,敵方の情報を獲得する目的でも行われていた。具体的には,
「敵方の使者を捕えて書状を奪ったり,敵方の者を捕虜にして情報をききだすことである。」
という。いかに書状が行きかっていたかは,残された文書からも推測されるが,関ヶ原合戦直前の直江兼続の書状があり,上杉景勝と伊達政宗が戦争状態になり,帰趨を決していない相馬への書状を巡って,境目で敵の伏せに書状を奪われたが,その場で,その伏せを倒して,書状を奪い返したことを称賛している。毛利と対峙していた秀吉が,光秀方からの使者に神経をとがらせていたのは,こういう背景として考えると,つながっていく。
透波という言葉の意味には,
盗人
詐欺師
すり
の他に,野武士,強盗から出て間者を務めた者という意味があるが,『本福寺跡書』には,本職が桶師が防戦に加わったとの記述があるそうだが,桶師が別の顔を持っという意味では,透波というものが,庶民に紛れるという意味で,草の草たる所以が見える。
北条氏が雇っていた乱波は,風魔といい。北条が滅亡すると,盗賊集団になったと言われる。それが跳梁したのが,江戸時代初期で,町奉行所でも勘定奉行所でも対応できない無頼をとりしまるために,例の火付盗賊改が設けられた,というふうに考えられている。火付盗賊改が荒々しいのは,もともと先手組という戦時の先方を務めるという位置もあるが,そういう輩を扱うところから始まったからでもあるらしい。
参考文献;
三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
笹間良作『日本戦陣作法事典』(柏書房)
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(歴史新書y)
クラウゼヴィッツ『戦争論』(岩波文庫)
吉田孫四郎編『武功夜話』(新人物往来社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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