2015年04月08日
粛々と
「粛々と」とは,
今日為政者の,常套句である。要は,
何と言われようと,(いまの行為あるいは立場を)やめない,
と言っているだけである。だから,翁長知事が,官房長官との対談で,
「官房長官が『粛々』という言葉を何回も使われるんですよね。僕からすると問答無用という姿勢が大変埋め立て工事に関して、感じられて、その突き進む姿というのはサンフランシスコ講和条約で米軍の軍政下に置かれた沖縄、そしてその時の最高の権力者がキャラウェー高等弁務官だったが、その弁務官が沖縄の自治は神話であると言った。
私たちの自治権獲得運動に対して、そのような言葉でキャラウェー高等弁務官がおっしゃって、なかなか物事は進みませんでしたけど、いま官房長官が『粛々と』という言葉をしょっちゅう全国放送で出て参りますと、なんとなくキャラウェー高等弁務官の姿が思い出されて、重なり合わすような、そんな感じがしまして、私たちのこの70年間は何だったのかなというようなことを率直に思っております。」
と言った。つまり,どんな民意があろうと,異論があろうとも,一切変えないで,突き進む,ということを言っていただけに聞こえるからだ。それは,確かに,
「上から目線」
に聞えるだろう。結論を押し付けるのを,対談とは言わない。だから,既成事実を積み重ねて,後戻りのきかないティッピングポイントを越えてから,対談したように見える。当然,翁長知事が,軍政下に置かれた沖縄に君臨し,「(沖縄住民の)自治は神話でしかなく、存在しないものだ」と豪語した高等弁務官キャラウェイに擬して,
「キャラウェイ高等弁務官の姿が思い出される」
と言い,「名護市長選、知事選、衆院選で示された辺野古移設反対の民意が存在しなかったかのように振る舞う」ことは「工事中止は神話」と言うに等しい,と批判したのである。それに対して,官房長官は,「辺野古(移設)を断念することは普天間の固定化につながる」と述べ,移設作業を「粛々と進めている」と語った。しかし,辺野古に移設しても,
「普天間が返還されて、辺野古にいって4分の1になるんだという話があります。嘉手納以南が返されて相当数返されるというのですが、一昨年、小野寺前防衛大臣がお見えになったとき、一体全体それでどれだけ基地は減るんですか、とお聞きしたら、今の73.8%から、73.1%にしか変わらないんです。0.7%なんです。」
と,沖縄の実質負担はほとんど変わらないのである。何のための新基地設営なのか。琉球新報は,
「代替の新基地を求めること自体もっての外だ。日本政府が米国の不当行為に加担して、普天間の危険性除去のために沖縄が負担しろというのは,知事が主張するように『日本の政治の堕落』でしかない。」
と,手厳しい。さらに,翁長知事は,
「『戦後レジームからの脱却』ということもよくおっしゃいますけど、沖縄では戦後レジームの死守をしているような感じがするんですよ。一方で、憲法改正という形で日本の積極的平和主義を訴えながら、沖縄で戦後レジームの死守をするようなことは、私は本当の意味での国の在り方からいうとなかなか納得がいきにくい、そういうものを持っております。」
と言ったが,普通なら,返事に窮するはずである。
一旦決まった既成事実をそのまま推し進めるのは,日本の(政治家・官僚・軍人の)常套である。古くは,大鑑巨砲主義が終り(終わらせたのは日本軍の海軍航空隊である),航空機の時代が来たのに,無用の長物「戦艦大和」を造りつづけ,結局片道分の燃料を積んで無意味な特攻にしか使えなかった。そのために三千人もの死者を出した発想と同じである。八ッ場ダムも,原発(再稼働)も同じ轍である。言い方を変えると,既得権益といってもいい。この場合,
粛々と,
とは,無謀と同義である。「粛々と」とは,
「謹んで気を引き締める様子」
を指すのであって,いったん決めたことを,立ち止まって再検討しないなどと言う独断専行,と言うか,
耳を閉ざす,
ことを意味していない。辞書には(『広辞苑』),
謹むさま,
静かにひっそりしたさま,
おごそかなさま,
としかない。耳を閉ざし,いったん決めたら,手古でも動かない,
頑冥さ,
を指してはいない(もちろん,こういうのを「ぶれない」などとは言わない)。「肅(粛)」は,
「聿(筆をもったさま)+淵(ふち)の略字体」
で,筆をもち,深い淵のほとりに立ち,身の引き締まるさまを示す,
とある。「淵」の右側は,廻りを囲んで,その中心に印をつけて,水のたまったことを示す」とも言う。「肅」には,
縮む
とか
謹む,
という意味しかない。「粛々」を見ると,
厳正な貌,
敬い謹む貌,
静かなる貌,
鳥の羽の声,
松風の声,
とある。まさに,頼山陽の,
鞭声粛粛夜河を渡る,
である。「粛々」に「と」を付けても意味は変わらない。
「政治家が対立する政党や世論の反対・批判を押し切って物事を進める時によく使われている。」
が,そういう意味ではない。「謹む」とは,
「包む」と同源。自分の身を包ひきしめる,
という意味である。謙虚と言い換えてもいい。
「政治家がいつ頃から『粛々』を使い始めたかは不明ですが、対立する政党や世論の反対・批判を押し切って物事を進める時によく使われる、という印象です。やや難解で強さのない『粛々』で露骨さを和らげながら、批判には耳を貸さず方針を押し通すのに使ってきました。かつては、この言葉がスマートに聞こえた時代があったのでしょう。しかし、今日では言い訳がましく聞こえます。」(東海テレビ|空言舌語より)
という意見もある。政治家は,誰のために存在するのか,国民のためになのか。一体誰の負託を受けているのであろうか。まさか,
アメリカや米軍のために,
存在するのではないだろう。鳩山元首相のように,一度でも,アメリカと本気で交渉しようと試みた政治家は,ほかにいない。地位協定の不平等さひとつとっても,米軍に牛耳を執られている空域制限にしても,電波にしても,独立国家なら,
粛々と,
アメリカに物を言ってはどうか。基地を撤去させたフィリピンの政治家にも劣るのではないか。
「日本の国の品格という意味でも、世界から見てもおかしいのではないかなと思っておりまして、この70年間という期間の中で、どれくらいの基地の解決に向けて頑張ってこられたかということの検証を含めて、そのスピードからいうと、責任はどうなるのか、これもなかなか見えてこないと思っています。」
と言う,翁長知事の言に,まさに,粛々と,耳を傾けるべきではないか。
因みに首都圏の空は,米軍に空域を蓋われている。民間機は,それを避けて飛ぶ。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
米軍基地移転問題に関する初会談(冒頭全文)http://logmi.jp/48814
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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