2015年04月11日
姿勢
都市伝説のように,マザーテレサが言ったとされているらしい言葉は,
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
実は,は出典不明で,
Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words; Be careful of your words, for your words become your deeds; Be careful of your deeds, for your deeds become your habits; Be careful of your habits; for your habits become your character; Be careful of your character, for your character becomes your destiny.
というのが原文らしい。僕は,まったく違うものを読んでいて,ああこの人が言ったのか,と知ったことがあるが,それを探したが見つからなかった。ただ,僕には,これは,マザー・テレサの発言ではないように思えている。僕には,マザーテレサが,こういう言いようをするとは思えない。
人はしばしば
不合理で、非論理的で、自己中心的です。
それでも許しなさい。
あるいは,
あなたは、
あなたであればいい。
あるいは,
私たちは、大きいことはできません。
小さなことを
大きな愛をもって行うだけです。
あるいは,
日本人はインドのことよりも,
日本の貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。
愛はまず身近なところから始まります。
等々が彼女の言いようである。こういうことを言う人が,上記のような言い方をするとは,ちょっと信じがたいだけだから,たいして,根拠はない。ただ,どんな性格でも,どんな習慣でも,テレサは,許す,と思えるのだ。どうも,ネットで見つけた,同類の,
性格は顔に出る。
生活は体型に出る。
本音は仕草に出る。
感情は声に出る。
センスは服に出る。
美意識は爪に出る。
清潔感は髪に出る。
落ち着きのなさは足に出る。
と言う類のものの言い方は,彼女には似合わない,と感じた。なぜなら,
天の声を聞く人の言葉,
とはとは思えないからだ。彼女は,真っ直ぐ地軸の上に立ち天の声に耳をかたむける姿勢を持っている。それなら,違う言い方をするだろう。だから,
まず、その人のなかにある
美しいものを見るようにしています
この人のなかで一番素晴らしいものはなんだろう?
するとかならず美しいところが見つかって
私はその人を愛することが
できるようになります。
こう言い方をするだろう。のっけからつまらぬ回り道をしてしまった。僕は,
身を正すことは,
姿勢を正すことであり,
姿勢を正すことは,
心を正すことであり,
心を正すことは,
耳を正すことだ,
とありきたりのことに気づいたということを言いたいだけなのだ。
先日ある人と話していて,途中で,おのれの姿勢に気づいて,思わず坐りなおした。そうしたら,実にすっきりと,相手の言っていることが,耳にどく気がしたのだ。そして,その瞬間,(相手は起業のことを話していたのだが),
あなたのお客さんが待っている,
ということを直感で思い,(僕の性分では決して口にしない類のことを)口にした。瞬間に,へつらいの気持ちや,おだての気持ちがわいたのではない。素直に,そう感じだのだ。
あるいは,別の機会に,相手の話を聞いていて,自覚して,姿勢をただした,その瞬間,
コラボ,
ということを感じて,口に出した。相手が自分の特徴を気づくには,誰かと一緒に何かを協業してみると,自分の差別性に気づく,と言うのは,後知恵で言ったまでだが,その前に直感したのは,脈絡なく感じたものだ。
直感はともかく,すくっとした姿勢でいるということは,
周囲に立つ,
という意味でもある。立つ,というのは,
「大(ひと)+一線(地面)」
で,両足を揃えてたったさまを示す。両足や両手を揃えた安定という意味を持つ。それは,椅子に座ってもできる。座面一杯に尻を置き,背筋を伸ばすことで,立つのと同じように,地軸に連なる感覚がある。立つについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/399481193.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/404789268.html
で触れたが,姿勢を正して,屹立というのは,言いすぎだか,きちんと向き合うことで,相手にもその姿勢は見える。相手にも,
はっきり(こちらの)姿が目立つ,
ということでもある。姿勢というのは,
「姿(すがた)+勢(いきおい・ありさま)」
である。少なくとも,
構え,
である。
「姿」の「次」は,「二(そろえる)+欠(かがんださま)」の会意文字。人がかがんでそそくさと,ものを揃えるさま,という意。「姿」は,「女」を加えて,女性がそそくさと身づくろいをして,身なりを調える,あるいは,ぜんたいをざっとつくろっただけで,むやみに手を加えないそのままの様子,という意。
「勢」の字の「上部は,園芸の芸(藝)の原字で,「木+土+人が両手を伸ばす形」の会意文字。人が木を土に植え,よい形に整えるさま。「勢」は,それに「力」を合わせて,力を加えて,強制し,他のものを程よい形に整える,という意。転じて,自分ではどうにもならない,外からの勢い,という意になる。
どうも,姿勢と言うのは,ずっとある不動の格好とか,佇まい,と言うのではなく,
居ずまいを正す,
というような,意識して,身を正す,という意味が本義のように思えてくる。それは,
意識して作るもの,
というか,
意識して正す,
ものなのだろう。
耳を正す,
という言い方があるかどうかは知らないが,聴く姿勢を取るということは,
居ずまいを正す,
姿勢がいる,ということなのだろう。その意味では,言葉の向こうに,
その人の姿勢,
あるいは。大袈裟に言えば,生き方が出ているはずなのである。
そのことを感じたのは,横井小楠が,暗殺の理由にされた『天道覚明論』において,天皇制廃止論を唱えた,とされた経緯である。しかし,これが明らかな偽書であることを,僕は,言っていることではなく,その文章が,他人事して正論を吐いているところに,見た。
すべてを,我が分内のこととして引き受け,その一切を背負う(という小楠のいつもの)覚悟が,あの文書のどこにもないのである。他人事として語るのならばその人格、思いはいらない。たとえば,小楠はこう言う。
人心の知覚は無限の広さをもち,この知覚を広げれば全世界のこと全てが心に入ってくる。この心の知覚こそ則ち思うであり,思って筋を会得すれば,世界中の物事の理は自分のものになる,
そういう小楠にとって,世界はおのれの内からみている。その世界を、おのれが引き受けるべきものとして、おのれの全力をこめ、誠心を貫く責任をもって。そういう覚悟のみじんもない文章は,心のない文章である。
冒頭のテレサの言と言われる言葉にも,僕はそれを感じたのである。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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