2015年04月18日

語り


駒塚由衣さんの,江戸人情噺『猫頭の由来』

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=686300464812323&set=pcb.686300524812317&type=1&theater

を伺ってきた。

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駒塚由衣さんのアトリエ公演は,既にこれまでも,「妲妃のお百」(作:藤浦敦)

http://ppnetwork.seesaa.net/article/413694128.html

「郭夜公隅田白波」
http://ppnetwork.seesaa.net/article/409301615.html

を伺った折に,感想は書かせていただいたので,それ以上はないのだが,改めて,

語り,

というものの魅力というものを感じた。

『石丸幹二の語りで聴く  チャイコフスキー「くるみ割り人形」(映像つき)』を聴いたおり,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163343.html

で,(石丸ファンにはお叱りを受けたが)映像や音楽の力を借りるというか,映像や音楽の添え物は,

語り,

とは言えないと思う。一般に,語りものというと,

「伝統的な日本音楽(邦楽)において、声楽はその大部分を占めているが、日本音楽における声楽は、『歌いもの』と『語りもの』に大きく分けられる。『歌いもの』は、旋律やリズムなど、その音楽的要素が重視される楽曲であるのに対し、『語りもの』は詞章が何らかの物語性をもつ楽曲であり、語られる内容表現に重点が置かれる音楽である。」

とある。そして,

「平安時代にはじまった軍記物語の多くは後世『語りもの』として庶民のあいだに愛好された。」

とある。『信長公記』の太田牛一は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/404946713.html

で書いたように,みずから,おのれの書いたものを語ったと言われている。文字の無かった時代,

古事記,

の,稗田阿礼のように,語り部として,

昔から語り伝えられる昔話,民話,神話,歴史

を語り継いだ。その様子は,

「『延喜式』にもみられ、践祚大嘗祭の折に、伴宿禰、佐伯宿禰が、美濃より8人、丹波より2人、丹後より2人、但馬より7人、因幡より3人、出雲より4人、淡路より2人の語部を率いて古詞(ふるごと)を奏した」

とある。内容については「其の音、祝詞に似たり」とある,そうである。上棟式で,神主が祝詞を称えるのに似た節回しだったのだろう。

語りといえば,講談や,落語,というものを思い浮かべるが,落語の始原は知らないが,

「浄土宗の説教師であった策伝は御伽衆として大名の話し相手となり,『落とし噺』の名手」

であったとするから,そうした滑稽話が,大道でなされたのが始まりだと思うが,事典的には,

「能楽や歌舞伎など他の芸能と異なり、衣装や道具、音曲に頼ることは比較的少なく、ひとりで何役も演じ、語りのほかは身振り・手振りのみで物語を進め、また扇子や手拭を使ってあらゆるものを表現する独特の演芸」

とされる。怪談話で,噺家が,いろいろ音響を使うのを聞いたことはあるが,通常は,扇子と手拭いである。語りと落語の違いについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163336.html

で書いたように,その人の話では,

演じてはいけない,

のだそうだ。

人物の語り分け
と,
人物の演じ分け,

の違いは,素人には解釈不能だが,繰り返しになるが,かつては,一応,こう書いた。

「落語(「噺」)と語りとはどう違うのか,ということになる。語りでは僕の聞いた限りでは,その声音もしぐさも,その人物になりきって語る。そのとき,語る人(語り部と呼んでおくべきか)は,その物語の語り手であり,登場人物A,B,C…であることになる。その語る人は,一方では監督でもあるが,役者でもあり,ナレーターでもあるという使い分けをしている。

噺家は,そうではないという。あくまで,噺を伝えている。一般的には『落語』と書いても『おとしばなし』と読んでいたそうだから,落語の基本は『それはなしは、一が落ち、二が弁舌、三が仕形(しかた)』と言われるのも当然で,その人になりきる演技ではなく,噺の流れと構成のつくり方にあるのに違いない。

だから,語りの向き,しぐさ,言葉遣い,扇子と手拭による見立てによって,その人物を表現するが,その人物を表現するのに必要な,男女,身分,年齢を際立たせる程度の使い分けをするが,それ以上にはいりこまない。そこは,口先だけで小道具なしで語る語り部との違いかもしれない。」

と書いた。億説かも知れないが,僕には,

語りの方が落語より自由度が広い,

と見える。落とす必要もないし,笑いを取る必要もない。いまは,まだ,『落語』として書かれたもの(台本)を土台にしているが,平家物語でも,源平盛衰記でも,太平記でも,あるいは,西鶴ものでも,八犬伝でも,語りの源泉は,無数にある。

新しい語りの世界をひらいてもらいたい,と思う。

最期に,落語家の左右へ変えて,話し分けることについて,ある作曲家は,音響面から,

「『熊さん』と「八っっさん」の会話を,噺家は姿勢を左右に変えて演じ分ける。…寄席で名人の落語を聞くと,左右の側壁に反射する声をコントロールして,小屋の響き全体から『熊さん』と『八っつあん』の違いを創り出している。…名人が適切に側壁をかつようすれば,二人の人物の声を聴き手の左右の耳に,交互にアクセントをつけてとどけることができる…。」

と語っておられた。狭い寄席ならば,確かにそういうこともあるし,聴き手にとっても,反響で声がステレオに聞こえるのではあるまいか。狭いアトリエは,語りには向いている気がしてならない。

参考文献;
伊東乾『なぜ猫は鏡を見ないか?』(NHKブックス)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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posted by Toshi at 04:54| Comment(0) | 語り | 更新情報をチェックする
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