2015年04月19日
節
節(フシ)の語源は,
「フ(経)+シ(処)」
で(出典は『大言海』らしい),竹,葦などの区切り,をいう。たた,「フシ」と読むのと,「セツ」と読むのとで,どう違うのか。
節(セツ)は,中国語の「節」が語源。ただ,「節」の説明は,二つある。
一つは,「竹+即(断ち切ること)」
いまひとつは,「即」は,の左側は,「皀」で,人がすわって食物を盛った食卓のそばについたさまで,「ごちそう+膝を折ってひざまずいた人」の会意文字。ここでは,「卩」の部分(膝を折る)に重点があり,「竹+膝を折った人」で,膝を「ふし」として,足が区切れるように,一段ずつ区切れる竹のふし。
どうも素人が言うのも何だが,
竹になぞらえるか,
膝になぞらえるか,
の違いだが,「区切れ」とか「切れ目」の意味になったものらしい。だから,「節」には,竹の節もあるし,関節もあるし,音楽の節もあるし,文章の区切れ(文節)もあるし,季節の変わり目もあるし,割符の切れも(符節)もあるし,振る舞いの切れ目(節度・礼節)もある。だから,準えられるものにどんどん敷衍されていく便利な言葉に違いない。
天地は節ありて四時成る,
という。この場合,節(せつ)のことである。ちなみに,「節(せち)」とも読むが,そう読ませると,
季節の変わり目
とき
節日
と意味がほぼ特定されてくる。
節(せつ)で引くと,
竹や枝の骨のふし
季節の変わり目
時期,
区切り(曲のふし,分のくぎり)
志を守る
控え目
君命の使者の標識
節点
等々。「節(ふし)」で引いても,大きな差はない。ただ,『大言海』は,「せつ」のほかに,「ふし」を二項に分けて載せている。(「経(ふ)る處の意かという」と断ったうえで)一つ目は,
(経る処の意)竹・葦などの幹の中に,隔てとなれるもの,
樹の幹に柄だの差したる痕
動物の骨のつがい目
絹・麻糸のところどころに瘤のごとくなれるもの
で,いわゆる「フシ」の発祥にかかわる「経る処」を指しているものそのもので,いまひとつは,それら準えた,
事の廉。間に隔てあるより,事の箇条,
時の窺うべきところ,機,時期,
歌の調子の長短,高低の変ずる所,
と分けている。昔,村上一郎が,
「草莽とは,草莽の臣とは違う。『大言海』は「さうまう」「さうまうのしん」を別項として,この大辞典の編著上の見識をしめしている。」
と書いていたのを思い出す。
「その節はありがとうございました。」
というとき,「せつ」とは言うが,「ふし」とは言わない。
「節を正ず」
というとき,矢の箆(やがら)の「ふし」を揃えることだから,「せつ」とは言わない。
節を折る,
とか
節を全うする,
は,やはり「せつ」と言う。微妙な使い分けは,言語感覚として,たとえば,
「せつ」は準えた側,
「ふし」はそのものをさす場合,
の使い分けがあったような気がする。例外的に,「ふしをつける」というような,言いがかりを付ける,と言う言い回しがあるが。
たとえば,メールマガジンに,
「四季の巡りにも,程良い節(せつ)がある。」
「人間も物事も節(ふし)を設けることで成長する。」
という使い分けがあった。
「節」は,切れ目という見方もあるが,節目があること,が強さにもつながっている。惰性に流される,感情に流されるのを押しとどめる堰とも言える。そうみると,
行いを抑える角目(節操,枉節,礼節)
勝手な行いを抑える(節操)
節目を超えないようにほどほどに抑える(節度,節約,節制)
という使い方が生まれてくるのも,「節」「節目」の,止める,抑える,結果としての剛性からの喩えの気がする。
「節」という字に,日本語の複雑な奥行と,言葉の源流が垣間見える気がする。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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