2015年04月21日
才能
才能
という言葉には,ついうなだれる。才能は,
才あり,能あること,
才幹
ともいう。と,『大言海』は,にべもない。『広辞苑』は,
才知と能力。ある個人の一定の素質。または訓練によって得られた能力,
とある。語源は,『広辞苑』の言う通り,
「才(才知)+能(能力)」
で,理解して処理する頭と能力の意味。どうも,才能は,音楽,スポーツ,学問などの領域で,
「訓練によって将来優れた能力を発揮すると期待される素質的な能力」
を指して使われているが,心理学的専門用語として確立された概念ではない,と『心理学辞典』では,言っている。
ある場合は,生得的なものとして,
ある場合には,その人とそれを取り巻く環境との相互作用を指し,
ある場合には育成するべき可塑性のあるものを指す,
と様々な意味合いで使われている。
才知,
というと,
物事をうまく行なう,頭の働き,
という意味が強い。どちらかというと,才知と知性では,ちょっと意味が変わるかもしれないが,「知」としては,G・ライルの,
Knowing that(そのことについて知っている)
と
Knowing how(そのやり方を知っている)
という意味合いでいいのではないか。ただ知っているだけではなく,そのことをどうやるかが,わかっていなければ,知っていることにはならない。横井小楠が,学ぶとは,
「書物の上ばかりで物事を会得しょうとしていては,その奴隷になるだけだ。日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのかを考える」
ことだといったのは,そういう意味だ。能力というのは,一般的に言って,
どれほどできるかできないかという力,
のことをいうらしいが,その場合,できるという,その「何」が,が問題になる。ぼくは,アージリスの言った,
コンピタンス
と
アビリティ
の定義を思い出す。コンピタンスとは,
それぞれの人がおかれた状況において,期待される役割を把握して,それを遂行してその期待に応えていける能力,
であり,ある意味,役割期待を自覚して,そのために何をしたらいいかを考え実行していける力であり,その先に,いわゆるコンピテンシーが形成される。つまり,それは,
自分がそこで“何をすべき”かを自覚し,その状況の中で,求められる要請や目的達成への意図を主体的に受け止め,自らの果たすべきことをどうすれば実行できるかを実施して,アウトプットとしての成果につなげていける総合的な実行力,
である。アビリティとは,
英語ができる,文章力がある等々といった個別の単位能力,
を指す。どうも,多く,能力を言うとき,後者を指しているのではあるまいか。それは,Knowing howでしかなく,やれることの意味と目的がわかっている(Knowing that)のでなければ,知っていることにはならない。
能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
と(僕が)言うとき,知っているには,Knowing howの(メタ化である)Knowing that を含めている。
たとえば,
「情報処理能力や作動記憶容量といった概念は,どの活動においても,共通に必要とされる情報処理の側面に注目」
したもので,一般に言う,知能に該当する,という説明がある。その場合,自分の中に後天的に蓄えられた,経験と知識であるリソース,
意味記憶,
エピソード記憶,
手続き記憶,
の多寡ではないのではあるまいか。
思うのだが,同じ知識を蓄えても,それをさっさと自己流の行動(問題解決)に応用していく,すばしっこさは,生得のものではなかろうか。どんなに熱心に練習しても(それ自体が素質なのだが),誰もがイチローにはなれない。だから,神田橋條治さんが,
自己実現とは遺伝子の開花である,
という言葉が意味を持つ。
「鵜は鵜のように,烏は烏のように」
とその言葉は続く。鳶は鳶であり,鷹は鷹である,鳶は鷹にはならない。アヒルに交じっても「醜いアヒルの子」は白鳥になったように。そうなると,
「自分が鵜なのか,鷹なのか」を見極めること
こそが,勉強であり,修行である。遺伝子の持つ可能性を,開花させるも,蕾のまま萎れさせるのも,おのれ自身である。
しかし,残念ながら,(確か岸田秀さんの言葉だったと思うが)「人は,幻想をもつ」,そこが人の人である所以ではある。
参考文献;
神田橋條治『技を育む』(中山書店)
中島義明他編『心理学辞典』(有斐閣)
宮城音弥編『心理学小辞典』(岩波書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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