境界線
JCAK神奈川チャプター主催 ,「近藤真樹コーチのファウンデーション講座」の「境界線をひろげる」
http://kokucheese.com/event/index/273117/
に伺ってきました。
いい歳をして,いまさら境界線というのも,と自問しつつ出かけました。
境界線とは,
「自分自身の全てを十分表現するのに必要な領域を定義するために,自分自身の周りに引く境界線である」
とある。もちろんこの場合,物理的な距離ではない。だから,
エドワード・ホールのいう,対人距離,
密接距離(intimate distance)15〜45cm。愛撫、格闘、慰め、保護の意識をもつ距離。
個人的距離(personal space)45cm〜1.2m。相手の気持ちを察しながら、個人的関心や関係を話し合える距離。
社会的距離(social distance)1.2〜3.6m。客と応対する距離、人前でも自分の仕事に集中できる距離。
公衆距離(public distance)3.6m以上。公演会の場合など、公衆との間にとる距離。
という人との距離感覚という目に見えるものではなく,ひとりひとりが,意識に持つ,ある意味ハイパーな境界線と言っていい。あるいは,
自己意識の外延,
といってもいい。無論,それが,自分の枠であるが,極端に狭めていたり,野放図に広げていたりすると,どこかに無理がある。それの妥当さは,
居心地がいいかどうか,
のびのびしていられるかどうか,
という自分らしさ,というか,
自分本位でいられるかどうか,
と表現できるようだ。あくまで主観的なものだ。僕も含め,多く,自分の境界線を,
リミッターをかけているもの,
というか,制約や枠,あるいは堰,というふうに捉えがちだが,いまは,そうではなく,是非,可否の判別なく,そういう自分である,という確認から始まるのだろうと思えている。意識できている,つまり,
言語化できている,
かどうかがポイントなのだろう。意識できる,とは,そういう自分に対して,
メタ・ポジション
を執れている,ということだ。それは,選択できる,ということにつながる。よく言われるが,生理としての怒りの感情は90秒しか続かない。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163273.html
で触れた。にもかかわらず,怒り続けているのは,怒ることを自分が選択しているからにすぎない。そのことを意識しているかどうか,つまり,
意識して,怒りを表現している,
のか,
無意識に,怒っているのか,
の違いである。逆に言うと,
意識して,怒ることで,相手との距離を意識して遠ざける,という自分のありようを選択しても構わないのだ。
自分らしく振舞うのを妨げているもの,
という言い方をしてしまうと,僕なんかは,自分らしくさえあれば,いいのか,という気がしてしまう。ある意味,境界は,閾値でもあるし,リミッターでもあるが,逆に,節というか,自分で設ける節度でもあるのではないか。そのことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/417529941.html?1429388291
で書いた。
境界線を感知するための自問として,
自分自身がすべて十分表現できない,
向かうのがつらい,ネガティブになる,
(生活の中で)エネルギーロスが多い,
Noと言えず,困っている,
ゆとり,余裕が感じられない,
行きづまりのある,
ような,
場所,空間,
人,人たち,
コミュニティ,
仕事・状態,
ところ,
等々を例に,自分の中で,制約となったり,のびのびできない,というものを振り返る。たとえば,いい例かどうかわからないが,
告白,
を考える。自分がすべて表現できないのは確かだ。(もちろん対手があることにしろ)なんでも言語にすればいいというものではない。結局,
バランス
というか,
節度,
というものがいる。野放図に自己拡大するのではなく,ある程度礼節というか,節度を弁えた自分でありたいという部分とのバランスである。
それは,ときに,しんどいが,しんどくても耐えて守るべき境界もある。
そう,境界を意識するということは,
どういう自分でいたいか,
よりは,
どういう自分でありたいか,
ということを言語化することになる気がする。つまり,かく言う僕の言い方に,
ぼくの境界線,
が語られている。それを,
矜持,
というのだと思う。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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