2015年04月24日
どうせ
どうせ,
というのは,貶める口調である。
どうせ,俺なんて,
どうせ,大したことではない,
どうせ,たかが知れている,
どうせやるなら,
どうせ無理,
等々。必ずしも自分だけではないが,結果として,口に出す本人を貶める。だからか,
「『でも』『だって』『どうせ』,この3つのDが成功しない人の口癖です」
とまで酷評される。
意味は,辞書によると(『広辞苑』),
(断定的な気持ちまたは投げやりな気持ちを伴う)どのようにしたところで,いずれにしても,つまりは,所詮,
等々とある。『古語辞典』には載らない。ただ,
どうで,
で載っている(「どうで」は,『広辞苑』にも載る)。
どうしても,どうしたとて,つまり,どうせ,
と,意味が載っている。『大言海』は,両方載っている。「どうせ」は,
いずれにしても,なにせ,なにしろ,つまり,どうで,
という意味で,「どうで」を引くと,
いずれにしても,どうするとも,つまり,どうせ,
と載る。語源がわからないが,「どうで」と「どうでも」が似ている。「どうでも」は,
どうしても,いかにしても,なんとしても,是が非でも,
と,わずか「も」がついただけで,どうでもいいではなく,「どうにかしたい」に変る。
所詮も,同じ意味で使われるが,
詮ずるところ,(理の)つまるところ,押し究めたる,突き詰めたる,つまり,結局,到底,究竟,
という意味だが,原典は,経文で,
人をして,道を明らめしむる(能詮),人に明らめさせらるる(所詮)という語あり,
という。
憶測だが,「とても」は,「到底」から来たのではないか。到底は,
つまるところ,結局,
(後に否定語を伴う)いかにしても,どうしても,とても,
という意味になる。語源は,
「底に到る」
という中国語から来ている。
とても,どうしても,
の意味で使う。
どうせ,とても,どうで,所詮,到底,結局,つまり,
に通底しているのは,「先が見えている」という本人の意識(あるいは思い込み)である。つまり,
「結果の先取り思考であり,まだその時点に達していないにもかかわらず,現時点で,その結果になるであろう状況を先取って受けとめそれに感じとって生きるという発想形式」(竹内整一)
である。
今流のポジティブ思考では,
マイナス面というか,限界に焦点を当てている,
から,「どうせ」をマイナス思考の元凶のように扱う。本当にそうか。
日本人の伝統的な無常観,
に根差しているのではないか。そこにあるのは,
久方のひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらむ
と,嘆いてみせる。しかしその底のしたたかさを見なくてはならない。
「世界全体に占める日本の災害発生割合は,マグニチュード6以上の地震回数20.8%,活火山数7.0%,死者数0.4%,災害被害額18.3%など,世界の0.25%の国土面積に比して,非常に高くなっている。」
しかも,その日本列島に,高い密度で人が住んでいる。そこにあるのは,諦念だけであろうか。
「有るものは無くなり,盛んなものは衰える」
という時間感覚である。それは,
「春はやがて夏の気をもよほし,夏より既に秋は通ひ,秋はすなはち寒くなり,十月は小春の天気,…」
という先取りの,「どうせ」なのだ。「春の日の雪だるま」と喩える。しかし,だから,一日一日を大事にするのであり,好奇心に満ち溢れており,色好みであり,ファッションに敏感なのであり,食に貪欲なのだ。
世はさだめなきこそ,いみじけれ
とは言い得て妙。「どうせ」の先にあるのは,この精神なのではないか。
しかし,日本列島に自己完結した時代ではない。
つぎつぎなりゆく,
うつろひゆく,
のが自然(おのずから然らしめる)であるが,その自己完結から抜け出せなければ,
どうせ
は,その流れに埋没した結果にしかならない。そこからおのれを引っ剥がして(メタ・ポジションから),
身ずからというのもいい,
しかし,「おのずから」のなかに,
「おのおの其処を得」ていく,
のもいい。ただ「移る(移るは,写す,でも,映すでもある)」を眺めているだけではなく,
「おのずから然らしめるもの」
を写し取っていく,ことが必要なのではないか。その辺りは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/415685379.html
で触れた。その意味で,
「どうせ(どうで)」
は,
「どうでも」
に意味を変える。
参考文献;
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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