満月の人
作/演出/東 憲司 『満月の人よ』を観てきた。再演のようであるが,
http://ameblo.jp/shihofujisawa/entry-11988172280.html
出演は,村井國夫,山崎銀之丞,藤澤志帆,岡本麗の4人だけである。4人とも,達者で,ほとんど飽きさせない。最前列だったせいか,表情がよく見える。わずかなしぐさ,顔の変化が見て取れる。いい経験であった。
それだけに役者のうまさでもった空間だという気がする。
「満月の人よとは天狗の意味である。」
そうである。話は,
天狗伝説がある村に一人で暮らすとりもち職人の梁瀬達吉のもとに、27年前に駆け落ちして出て行った妻・早苗が,何度目かの男に死なれて,帰ってくる。同じく,妻に逃げられた息子も返ってくる。27年前の妻の出奔は,天狗による神隠しと,大騒ぎになり,山狩りまでした。その昔の記事を持って,訳ありの娘が,「天狗に会いたい」「天狗にさらわれて生き直したい」とやってくる。娘の天狗探しに,親身になって,あるいは不承不承付き合い,果ては,天狗の装束をつけて,天狗探しに一役買った家族か,何か憑き物が落ちたように,それぞれ自分の現実へと帰っていく。
天狗は,
「日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物」
だが,日本の神が,なべてそうであるように,禍でもあり,福でもある。
「平地民が山地を異界として畏怖し,そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ,各種天狗の像を目して山人,山の神などと称する地域が現在でも存在する。」
と言われる。畏怖の対象である。ただ,今日の,
「鼻が高く,長く,赤ら顔,山伏の装束に身を包み,一本歯の高下駄を履き,葉団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをする」
というイメージは,中世以降らしい。だから,『平家物語』では,
「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」
としている。
まあ,天狗のことはさておき,結局,天狗は,ここでは,
自分探しの出汁,
である。だからか,観終わって,
「情けない」
という言葉が浮かんだ。蔑む意味はない。
「情けないからこそ,人間らしい」
のでもある。「情けない」は,
「情け+無い」
で,ふがいない,意気地がない,という意味だが,「情け」は,
「ナス(為・作)+ケ」
で,心遣いが見えるさま,を意味する。『古語辞典』には,
「他人に見えるように心遣いをするかたち,また,他人から見える,思いやりある様子の意が原義。従って,表面的で嘘を含む場合もあり,血縁の人の間には使わない。ナサは,ナシ(作為する)と同根,ケは,見た目,様子の意の接尾語ケに同じであろう。ただ漢文訓読体では「情」(真情・内情)にナサケの訓を当てたので,平安女流文学系の用法と相違がある。」
とある。「情けなし」は,
情愛がない,思いやりがない,
風情がない,
むごい,
嘆かわしい,
となる。しかし,「情けない」登場人物か,訳ありの娘に,情け心から,天狗探しをしていくうちに,おのれ自身の真情に気付いていく,というのは,まさに,
情けは人の為ならず,
を地でいくようなものか。「情」の「青」は,
「生(あおい草の芽生え)+丼(井戸の中に清水のたまったさま)」
で,あおくさや清水のような澄み切ったエキス,の意。「情」は,
心の動きをもたらすエキス,
のことだそうだ。だから,心の動き,を意味する。その意味では,嘘でも,娘の,
天狗を信じ,それに会うことで,自分を変えたい,
と願う気持ちに添っていくうちに,それぞれの内にわだかまった,
鬱屈,
が消えていった,ということだろうか。
観終わって,心に,優しさを残す,印象ではあった。そのあたりのことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/415462184.html
にも書いた。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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