2015年05月05日

仮面


少し前のことになるが,「人を探求する」ワークショップ,第8回目「性格と心の傷の影響」

https://www.facebook.com/events/1562254350688908/

に参加してきた。

リズ・ブルボーの考え方をベースにして,

心の傷とは何か,
5つの傷が刺激されたときの影響,
私の心の傷は何か,

ということを学んだ。傷を,こう定義している。

「感情の苦しみのこと。本質的なニーズの一つが満たされず,自分や他人を責め,反応する関係性において,感情の苦しみを強く感じる。」

そして,5つの傷は,

拒絶 誰かの存在を拒絶,排除,拒み,拒否する行為,
見捨て 人を見捨てることは,ほったらかしにする,十分にケアしない,またはケアしたくないということ,
侮辱 辱しめられたと感じること,貶められた,不名誉だ,自尊心を傷つけられた,ということ,
裏切り 人を見捨てる,支配下に置くこと。裏切りは,約束やコミットメントを破ること,

とされている。結局,すべて,人との関係の中で,自分の中で起きる,不快感,悲しみ,憂鬱,絶望感等々,を名づけて,外在化することを意味している。

MRI(Mental Research Institute)で,問題を外在化し,

子どもの不登校も,怠け虫のせいにし,
おねしょも,おねしょマン,

として,それ自体を擬人化したり,外在物化することで,問題を内因ではなく外因とすることで,それに対処できる,ということと同じ機能があるのであろうと感じた。問題の外在化については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163419.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163523.html

で触れた。自分の内で,堂々巡りさせている限り,自責化しておのれを責め立てるか,他責化して誰かのせいにして攻めるか,と言う不毛戦から,外在化することで,自分がコントロールして,行動選択して対処できるカタチに置き換える,と言うのに似ている。

自分のすることに原因を探ることには,僕はあまり意味を見出さない。いい大人が,母のせい,父のせい,と言っている限り,へその緒が取れていないことでしかない。いま,その原因に拘泥する生き方を,自分が選択しているだけのことでしかない。

その意味では,外在化して,いままでの対処行動と違う対処をすることは,自分で選択肢を意識的に選び取れる,ということになる。

この仮説では,

①満たされないニーズ
  ↓
②傷(不足,苦しみ)
  ↓
③怒り(相手を責める,自分を責める)
  ↓
④仮面をつける

という対応段階を踏む,とする。そして,傷(と感じる苦しみ)を味わったとき,その対処として,

仮面を付ける,

とする。レジュメには,

「私たちは,第三段階と第四段階で,複数の仮面(新しい人格)を作ります。新しい人格は,第二段階,第一段階で経験した苦しみから守ってくれます。」

とあり,つまり,傷を守る防衛行動(対処行動)として,仮面をかぶる,とする。そのとき,

拒絶は,逃避する人
見捨ては,依存する人,
侮辱は,マゾヒスト,
裏切りは,操作する人,
不正は,頑固な人,

という仮面で,対処する。で,自分らしくなるには,傷以降の対応行動を遡るしかない,としている。

自分がやっていること行動が,自分を守る防衛行動,という考え方は,フロイトの,

抑圧,
退行,
投射,
反動形成,
昇華,

等々といった防衛機制を思い起こさせる。ある意味,こういう名づけは,交流分析で,

ペアレント
アダルト
チャイルド

と分けて,対処行動に,交流パターンを設定し,ゲーム,ラケットなどと分解していくのとも,軌を一にするのだろう。

それはそれで,自分の振る舞いに名がつくことで,苦しみを,自分と言う人間の人格や気質や性格という,自分自身の特殊性から分離でき,気が軽くなるはずであり,それを外に在るものとして,解決行動をとりやすいはずである。そのことは,外在化のもつ効果だと,僕は思う。

ただ,ここからは,それとの連想で,まったく別に,違うことを考えてみたい。

ひとつは,役割ということである。役割については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388876735.html

に書いた。われわれは,日常的に役割存在である。

「行為者は,ある役割関係を前提に,すなわちすでに存在する相互作用過程のなかで,ある役割を担う他者を見出し,対応する役割を担う行為者として,他者に対する関係行為を行う」

要は,何らかの役割なしには,この世の中に存在しえない,ということである。親には,子としての役割を,子には,親としての役割を,上司には,部下としての役割を担う。それは,また一つの仮面をかぶることである。それは,自分というものが,人との関係の中でしか,自分たりえない,ということである。家族療法で,家族をシステムと見なすとは,家族と言う集団の中で,おのずと役割を担うということを,別の言い方をしているにすぎない。

自己というものを,幾ら掘り下げても,らっきょの皮と同じで,何もない。捨てた皮こそが,自分だからである。人が社会的存在とは,そういう意味だと思う。人との関係の中に,その関係の中で,どうあろうとするか,の中にしか,自分というものは,見えてこない。

第二は,関係の絶対性について,である。これも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/413639823.html

で書いたように,関係の物象化と関わる。それは,いまの社会の中の関係性が,否応なく,自分のありようを左右する,ということを意味している。その物象化とは,

人間と人間の関係が,物と物の関係として表れてくる,

という意味である。それを,吉本隆明は,

関係の絶対性

と言った。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397281789.html

で触れた。小熊栄二氏は,こう書いていた。

「これを応用すると,『人間の能力』も,関係が物象化したものです。たとえば,家族がそろってニュース番組や芸術番組を見ながら夕食をとり,時事問題や芸術について会話があるような家庭で育った子どもは,お笑い番組をみながら夕食をとる過程で育った子どもより,自然と『能力』が高くなります。意識的な教育投資をしたかということではなく,長いあいだの過程の人間関係という目に見えないものが蓄積されて,『能力』となってこの世に現れる…。」

その意味では,親の社会的(役割)関係を反映して,おのれのありようを左右する。そこを逃れることはできない。

「市場経済の中ではみんな平等の人間だと言われますが,実際にこの世に現れるのは,『資本家』と『労働者』という,生産関係の両端でしかありません。『文化資本』のもとになる親の資産や学歴だって,もとはといえば,生産関係のなかで得られたものです。
こういう考え方によれば,『個人』とか『自由意志』というものは成りたちません。『個人』といっても,関係が物象化しているものだ。」

対立は,個人対個人のそれではないのだ,ということになる。この物象化を,絶対性と見た,というのが吉本隆明だが,少なくとも,素養だけではなく,資質や性格も,多く関係の絶対性の反映だということになる。

人は自己完結して存在し得ない。

その意味では,傷もまた,そうであり,仮面もまた,そういう関係性の反映であり,それを物象化している,という見方もある,ということを,僕は忘れたくはない。

最後に,能力にも,それは反映される。そういう中に置かれた自分が何をすべきかを考えるのが,本当の意味の能力である。アージリスの言った,

コンピタンス

である。そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/417632824.html

で触れた。アージリスは,能力を,

コンピタンス

アビリティ

に分けた。コンピタンスは,

それぞれの人がおかれた状況において,期待される役割を把握して,それを遂行してその期待に応えていける能力,

であり,ある意味,役割期待を自覚して,そのために何をしたらいいかを考え実行していける力であり,その意味で,役割や関係性を意識しないかぎり発揮できない能力だ。つまり,

自分がそこで“何をすべき”かを自覚し,その状況の中で,求められる要請や目的達成への意図を主体的に受け止め,自らの果たすべきことをどうすれば実行できるかを実施して,アウトプットとしての成果につなげていける総合的な実行力,

である。アビリティとは,

英語ができる,文章力がある等々といった個別の単位能力,

を指す。能力といった面ですら,力を発揮できるためには,結局,関係性,もっとはっきり言えば,社会の構造をおのれが反映していることを意識しない限り,箱庭の中の御遊びにしかならない。自戒を込めて。

参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
小熊栄二『社会を変えるには』(講談社現代新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
【関連する記事】
posted by Toshi at 05:15| Comment(0) | ワークショップ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください