2015年05月10日

感情



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清水真木『感情とは何か』を読む。

著者は,感情について,冒頭で,こう書く。

「私たちは,言語を手がかりにして感情を獲得し,感情を理解し,感情を共有します。感情は,私たち一人ひとりが何者であるかを告げるものであるとともに,私たちが身を置く世界の真相を普遍的な仕方で明らかにするものでもあります。具体的な感情をそのつど正しく受け止めることは,,自立的な自足的な生存への通路なのです。みずからの心に姿を現す感情の一つひとつを丁寧に吟味し,これを言葉に置き換える努力は,誰にとっても必要であり,価値あるものであるにちがいありません。」

これは,「やばい」ひとことで,さまざまな感情の彩りを表現することへの警鐘として語られているが,著者の感情の捉え方を象徴しているようである。

だから,

「感情とは何か」

という問いの意味を,こう書く。

「感情という現象には,一つの特殊な性質があり,この性質によって気分や知覚から区別されます。すなわち,感情を惹き起こす原因となるものが何であるにしても,感情が心に生まれるためには,感情の原因となる事柄が『私』のあり方との関連においてそのつどあらかじめ把握されていなければなりません。これは,感情を知覚や気分から区別する標識です。感情とは,『私とは何者なのか』を教えてくれるものであり,『私とは何者なのか』という問に対する答えは,感情として与えられます。」

さらに,

「気分や知覚は,物の見方や価値評価とは関係なく成立するものであり,この限りにおいて,自然現象に分類されるべきものです。…これに反し,感情は,各人の個性を反映します。」

とも。そして,

「感情の経験とは,自己了解の経験,『私とは何者なのか』を知る経験として受け止められるべきものです。なぜなら,感情の本質は,私と世界の関係をめぐる真理(=真相)の表現である点にあるからです。」

だから,

「『感情とはなにか』という問は,私と世界の関係を存在論的な仕方で問うものであると言うことができます。」

本書の大半は,プラトン,アリストテレス,からデカルト,スピノザ,ヒューム,アーレントまでの,哲学史の中での「感情」の取り扱われ方にページが割かれる。正直言って,西洋哲学に関心のない向きには,些事に渉る議論は,退屈で,迷惑このうえない。

しかし,本書は,「感情の哲学史」を目指し,

「感情の哲学史とは,情動主義との対決の歴史として,そして,感情の快楽の意味を明らかにする試みの歴史として記述されねばならない」

とし,古来以来の,「理性と感情の対立」というテーマを取り上げず,

「『感情とはなにか』を問うことにより本当に問われているものは何か,このような点が明らかになることにより初めて,哲学史に照明を当てる確度が定められ,哲学者たちのテクストに陰翳が生まれ,見解の『幹』と『枝葉』がおのずと区別されて行きます。」

という進め方を取る。それでも細部は,結構煩雑だが,著者が前提にしている考え方は,昨今流行の「アンガー・コントロール」というものとの違いを説くところによく表れている。「アンガー・コントロール」は,

「『怒り』(anger)の名を与えられた感情のコントロールではなく,怒りの表現として普通には受け取られている発言や行動と怒りの感情を結びつけることを容易にするような『気分』のコントロールにすぎません。むしろ,ほんとうの意味に置ける怒りのコントロールが可能であるなら,それは,怒りを変化させ,別の感情を産みだす操作でなければならないでしょう。」

つまり,怒りの代わりに,「憐み」や「悦び」「妬み」「敬意」を覚えさせるのでなければ,それはアンガー・コントロールではなく,怒りにともなう行動のコントロールを言っているだけだ,と言うのである。

それで思い出したが,前にも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163273.html

で取り上げたが,ジル・ボルト・テイラーは,こう言っている。

「わたしは,反応能力を,『感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力』と定義します。自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが,このプログラムの一つが誘発されて,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わります。」

生理的な反応の怒りは90秒まで,それ以降は,それはそれが機能するよう自分が選択し続けている,ということである。つまり,思いの偏りで,視野が狭窄しており,怒りつづけなければ,思いの秤のバランスが取れなくなっている,というように,である

著者の言うように,

「コントロール可能なのは,気分だけであり,気分から区別された感情というものは,外部からの一切のコントロールを受けつけないものなのです。」

では,感情とは何か。

「感情の本質は自己了解である。」

と,マルブランシュ(1674~5の『真理の探求』)を例にとって,

「情念の役割は,さしあたり,身体と心を含む一つの全体としての私の自己保存を支える点に求めることが出来ます。情念の体験を手がかりに,私は,好ましいものを選びとり,好ましくないものを斥けるからです。つまり,情念を情念として受け取ることを可能にするのは,体に対する私の『愛』であることになります。」

と述べる。そして,

「私の正体は,放っておいてもどこかから自然に涌いてくる身ではありません。(中略)フランシス・ベーコンが…用いた…表現を借用するなら,特別な道具を用いて自分を哲学的な『拷問』にかけ,自分の『秘密』を自分に対して『自白』させるくるしいプロセスでしょう。自己了解を目標とする拷問とは,『私は何者なのか』という問に対する答として不知不識に到来する感情から目を逸らすことなく,これを吟味し,説明するよう自らを強いることにほかなりません。」

と集約する。それは,終り近くで,アーレントを借りて,こう述べるところにつながる。

「感情は,『伝達可能』であるかぎりにおいて,公的であるかぎりにおいて感情として受け止めることが可能となります。感情は,単なる内面的,個人的,私的な現象なのではなく,むしろ,これが有意味な経験となるためには,なによりもまず,他人からの承認を想定して何らかの仕方で言葉へと置き換えられるプロセスが必要なのです。このかぎりにおいて,私の感情は,その都度あらかじめある特別な仕方で普遍性を具えていると考えなければならないことになります。」

それは,感情を自分が自分の感情として受け止めるには,言語に置き換える作業が必要であり,言葉に置き換える作業が,他人による承認,他人との共有を想定して遂行されるものであること,そして,その

「他人による承認の基準が『共通感覚』あるいは『趣味』と呼ばれるものであること,さらに,このような基準の正体が『共同体感覚』であり,公的領域に由来するものであること」

を教えてくれるのである。それは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163222.html

で触れた「嫌悪感」のように,社会的に形成される感情もある,ということにつながる。だからこそ,最後の,

「感情は,意見を異にする者たちのあいだのオープンな討議と合意形成の場としての公的領域を形成し維持する意欲,『公共性への意志』と呼ぶことのできるような意欲を基礎とするものであること,したがって,反対に,このような意欲を持たない者には,本当の意味における感情に与る可能性が閉ざされていると考えることが許されるに違いありません。」

という言葉がが生きる。

そう言う指摘に鑑みるなら,今日の,ヘイトスピーチを底辺とし,憎悪と嫌悪感のみでつながる為政者をトップとして,その嫌悪感と憎しみを言語化しようとしない(あるいは言語化するのを避けている,逃げていると言うべきか),いまの日本の今日のありようは,世界から,決して理解されないであろう。

かつて,憎しみ合うアイルランド紛争の最中,ロジャーズが試みた,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410724005.html

での,エンカウンター・グループにおける,「感情の言語化」による,相互の(相手に対して閉ざされた)「鋼鉄のシャッター」の開扉を目の当たりに見たものにとっては,なお一層,各々を自己完結した閉鎖されたところに押込めていく,今日の為政者の悪意を思うとき,いずれ自分の死後の日本のことにしろ,絶望に駆られる。恐らく,このまま日本は,再度孤立し,絶望的などん底を味わわされる羽目に陥るだろう。

一体何度同じ轍(すべては明治以降のことなのだが)を踏めば,我々は,覚醒するのだろう。いや,覚醒は来ないかもしれない,それほど,絶望している。

参考文献;
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)
清水真木『感情とは何か』(ちくま新書)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:01| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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