2015年05月18日

記憶力


高橋雅延『記憶力の正体』を読む。

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サブタイトルに,「人はなぜ忘れるのか」とある。

冒頭,ウイリアム・ジェームズの,

「もし私たちがあらゆることを忘れないとすれば,ほとんどの場合,何も覚えていないのと同様に困ったことになる。ある一定の時間を要した出来事を思い出すためには,もとの出来事と同じだけの時間が必要になり,新しいことを考えることができなくなってしまう。」

を引きながら,忘却力のお蔭で,われわれは,

「次々と新しいことがらを覚えたり,自分の考えを先に進めていくことができる」

と指摘している。さらに,バルザックの,

「多くの忘却なくしては人生を暮らしていけない」

を引きつつ,辛い出来事も,時間の経過とともに忘れ,辛さが軽減していくことも,忘却の効果をあげている。

ただ,忘れると一言で言っても,二つの意味がある。

「その一つは,長い年月がたってしまうことで,記憶が消滅してしまうケースです。…もう一つは,どこかに記憶としては残っているけれども,それをうまく引き出せないケースです。」

忘却といえば,ヘルマン・エビングハウスの「忘却曲線」が有名だが,その彼が,記憶の現れ方を,三つに区分している。

第一の記憶は,「我々がその目的で意志を働かせれば,失われたかと思われた意識の状態を,ふたたび意識のなかに呼びもどすことができるもの」。それで元の状態を再現できないことを,忘れた,ということになる。

第二の記憶は,「かつて一度意識のなかに存在した精神状態が,なん年もたったあとで,まったく意志の働きなしに,明らかに自発的に,ふたたび現れてくる」,自然に再現される記憶。無意図的記憶と呼ばれる。

この二つは,現在,「意識的記憶ないしは顕在記憶」と呼ばれる。

第三の記憶は,無意識的記憶ないしは潜在記憶,と呼ばれ,それが再現されても,「過去のことを思い出している」と意識されない記憶。

これは,スキルに関わるもので,手続き記憶と言われるものになる。一旦覚えた自転車の乗り方やスキーは,体が覚えている,といってもいい。

エビングハウスの記憶は,ある意味学習の忘却曲線だが,いわゆる自伝的記憶と呼ばれる記憶は,それとはまったく異なって,

「最初の一年間は,ほとんど忘却が起こらず,それ以降は,きわめてわずかずつ忘却される」

というのが,思いでの忘却曲線の特徴とされる。

本書は,「自伝的記憶を中心に忘却や記憶をめぐるトピックス」を扱っている。

たとえば,フラッシュバルブ記憶というのがある。ケネディ暗殺や3.11のようなショッキングな出来事を知った時の自分の状況に関する鮮明な記憶のことである。

フラッシュバルブつまり,「フラッシュライトのように,非常に詳細に記憶されている」ということだが,

「出来事そのものの鮮明な記憶ではなく,自分がいつどこでどのような状況のもと,その出来事を知ったかという自分自身に関する記憶が鮮明であるというものです。」

その出来事を知ったときの「驚き」によって,脳内に生理的な変化が起こり,記憶として焼き付けられる,と著者は言い,

「『驚き』という感情的ストレスが強ければ強いほど,生理的な変化が強く起こり,それだけ記憶が鮮明に焼き付けられる…。」

それは長期間にわたって細部まで保存されているが,しかし,写真のように細部まで正確に記憶されているわけではない。多くの記憶間違いが起こる。

「だれもが経験的に知っているように,何かを覚えるためには,繰り返すことが重要です。だとすれば,繰り返し思い返されるフラッシュバルブ記憶がいつまでも鮮明であるのは,ある意味,何も不思議なことではなくなってしまいます。逆に言えば,私たちがふだんの何気ない出来事を忘れていくのは,それを思い返すことがないからなのです。」

その意味では,感情的ストレスに関与した場面の記憶は良く,それ以外の記憶は悪化する,というのは,

「一つは注意の集中」

であり,

「もう一つは,感情ストレスの関与した出来事が起こった後の反すう,思い返し」

という,まあ,当たり前のことが,記憶を左右する。しかし,

「感情ストレスの強さは,ある適度レベルまでは記憶をよくするのですが,その最適レベルを超えると,今度は逆に記憶が悪化してしまうのです。」

PTSD(心的外傷後ストレス障害)の場合,フラッシュバックのようなつきまといとともに,記憶の欠落をも生む。これは,感覚的記憶ないしは身体記憶といわれる,無意識的記憶の特徴らしい。

無意識的記憶には,

快不快といった感情の関与するもの,
視覚的パターン,
身体の記憶,

というものがある。

身体の記憶は,スキルのような手続き記憶に当たるが,単純接触効果によって,接触頻度が増えるにつれて,意識していないが好印象を持ってしまう,というのが感情の関与するものだ。視覚的パターンは,健忘者に隠し絵を見せる。一日立つと,それを見た記憶を健忘者は持たないのに,隠し絵のパターンは,無意識で覚えていて,素早く再認する,という例がある。所謂勘といわれるものも,パターン認識だが,無意識記憶に入れられるだろう。

言ってみると,知識も含め,我々の頭にある記憶は,主に,

エピソード記憶(自伝的記憶に重なる),
意味記憶,
手続き記憶,

になるが,

「私たちの記憶は,さまざまな記憶が無味乾燥に並んでいるのではなく,それぞれのテーマにまつわる『物語』として,関連した複数の出来事があつめられて(意味づけられて)いるのです。」

だから,

「『過去から未来へ向かって生き続ける一人一人の人間の存在』との関係から記憶を考えたとき,当人自身やまわりの状況が変ることによって,想起される記憶が変り得る可能性が常に存在するのです。」

ということを忘れてはならない。つまり,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416479966.html

でふれたジャネが言うように,

「愉快なときには,何でも薔薇色に見え,哀しいときには,何でも黒色に見える」

のであり,そのときの気分にかなう記憶が思い出される。ナラティブ・セラピーで言うように,いまの生き方が,

自分のドミナント・ストーリーを決める,

別の気分の自分には,

オルタナティブ・ストーリー,

が語れる。記憶もまた,いまの自分の生き方が,語らせる,一つの物語なのだ,という気がする。

参考文献;
高橋雅延『記憶力の正体』(ちくま新書)








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:25| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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