無知


確か吉本隆明の口癖は,

無知の栄えたためしはない,

であった気がする。

ロラン・バルトによれば,

「『無知』とは知識の欠如ではなく,『知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態』」,

を言うそうだ。逆に言えば,

「自分はそれについてはよく知らない」

と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことを、とりあえず黙って聞く。

確か,神田橋條治氏は,

優れた人ほど(この場合セラピストないし精神科医を指す),知らないことは知らない,と言える,

と言っていた。そうすれば,相手は,喜んで教えてくれる,と。勝海舟も,

主義といひ,道といつて,必ずこれのみと断定するのは,おれは昔から好まない。単に道といつても,道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは,おれの取らないところだ。

という。発想力とは,

選択肢をたくさん持てること,

であると信じている。。確かに,吉本の言うように,

知ることは,超えることの前提である,

けれども,その「知」とは,

Knowing that

だけではなく,

Knowing how

を持ったものだし,もっと言うと,

Knowing howのKnowing that

を持つことだ。それは,現実を捌き,新しい事態を切り抜けるだけではなく,

未知の視界

を拓いていくものでなくてはならない。だから,知識を得るとは,

見たこともないパースペクティブ

を手に入れることだ。前にも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/403368447.html

で書いたが,無知とは,辞書的には,

知識がないこと
智恵のないこと

とあるが,どうもそういうことではない気がする。確かに,

無(ない)+知(知る)

で,知らない,ということに違いないが,中国語源では,

無恥

つまり,

無(ない)+恥(はじ)

恥知らず,の意味だという。だとすると,なかなか意味深で,確かに,

知らないこと

ではなく,

知らないことを知らないこと,

と考えると,無知は無恥に通じる。

子曰く,由よ,汝に知ることを誨(おし)えんか,知れるを知れるとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり。

と,孔子が,由(子路)にこう諭したのも,そう考えると意味深い。

しかし,だ。「知らざるを知らず」とするのは,そういうほど簡単ではないのだ。何を知らないかがわかるというのは,知についてのメタ・ポジションが取れることだ。そんなことがたやすくできるはずはない。

別のところで,孔子は,自分自身は,「生まれながらにして之を知る者」ではなく,

学んで之を知る者

であると言っているが,「学んで之を知る者」の次は,

困(くる)しみて之を学ぶ者

であるという。しかし,問題は,何を,どう苦しめばそうなれるかだ。個人的には,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415067457.html

で書いたことと重なるが,

問い,

だと思う。答ではなく,何を問うたか,である。

「問う、如何なるか是れ、近く思う。曰く類を以って推(お)す」

である。

「如之何(いかん)、如之何と曰わざる者は、吾如之何ともする末(な)きのみ」

とはそれである。清水博氏の言われる,

「創造の始まりは,自己が解くべき問題を自己が発見すること」

である。それは,吉本の言う,

「沈黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです。」

であり,それは,

「 自分と, 自分が理想と考えてる自分との, その間の問答です。『外』じゃないですよ。 つまり,人とのコミュニケーションじゃ ないんです。」

であり,この場合,コミュニケーションとは,対話であり,それを読書や講義と置き換えてもいい。

参考文献;
清水博『正命知としての場の論理』(中公新書)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
吉田公平訳注『洗心洞箚記』(たちばな教養文庫)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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