2015年05月27日

問い


伊東乾『なぜ猫は鏡を見ないか?』を読む。

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「仕事の全体像がわかる主著を」という依頼を受けた著者は,本書の意図を,最終章で,

「音楽人としての私の根本的な動機,松村(禎三),橘(常定)の二人の師との出会いから出発して(一章・二章),いくつかの大切な契機と初期の仕事(三章・四章),リゲティの示唆とめまいの経験による変化(五章・六章),博士としての仕事(七章)とそれによる新しい作曲・演奏(七章・八章),大学に研究室を構えて以降の展開,解剖,脳機能可視化,ブーレーズとの指揮メソッド作り,オーム裁判と豊田亨君のことなど「多方面の仕事」をコンパクトにまとめ(九章),開高健賞以降のドイツ,シュトックハウゼンと果たせなかった仕事やバイロイトでの展開(十章)などを時系列に沿って記しつつ,…最後に三・一一以降の現状と,ひとまずのまとめを一一章に記した。」

と,語っているように,物理学の博士であり,作曲家・指揮者である,自分の全体像を,

「私個人に修練すべき仕事(作曲・演奏)」

「私個人に限局されない仕事(演奏・基礎の探求)」

として描いている。そして,

「この本を私は,単に読み物として書いていない。ここから共に演奏し,また本質的な探究を共に考える,未来の仲間への呼びかけとして記している。」

と書くように,現代音楽の最前線の問題意識と成果が,惜しげもなく,披露されている。僕のような素人が読むべき本ではないのかもしれない。

それにしても,松村禎三,橘常定から始まって,ジョン・ケージ,ルイジ・ノーノ,見田宗介,三善晃,村上陽一郎,武満徹,ジョン・ピアーズ,マックス・マシューズ,レナード・バーンスタイン,磯崎新,井上道義,山田一雄,黛敏郎,若杉弘,ジェルジ・リゲティ,高橋悠治,観世栄夫,ブーレーズ,團藤重光,ホセ・ヨンバルト,カールハインツ,シュトックハウゼン,安藤四一等々,数え切れないほどに,現代音楽の最先端ばかりではなく,最先端の知性との知の格闘は,実に読み応えがある。

それも,

「音楽にとって本質的な問いとは何か?まずそこから自問自答が始まった。あれから30年が経つ。様々な問いを立てて,それに応える形をとって,私は私なりの音楽を作り,また私なりの演奏をしてきた。そんな動機の問いと,おのおのの答から導かれた実際の音楽によって具体的なバリエーションをお話していこう。」

と冒頭にあるように,常に「問い」があるからこそなのではないか。清水博氏の言う,

「創造の始りは自己が解くべき問題を自己が発見することであって,何かの答を発見することではない。」

そのものである。著者の問いは,

「人はいつ『歌』を獲得したのだろう?」

というような,「本質的な」問いが多い。リゲティに言われた厳しい指摘から始まっているが,いま,

「リゲティあたりに『模倣』と腐されない仕事をしよう,またそれを国内外に通じる言葉でも発信し,演奏し,基礎から音楽を積み上げる仕事をしよう。」

という決意に基づいている。誰かのやったことでないことをするには,誰も立てていない問いを立て,それに基礎の基礎から探求し直して,明らかな答えを探す必要がある。東大物理学部に,「作曲指揮研究室」を立ち上げたのも,またそういう問いの連続の中にある。

問いは,本書の各章のタイトルを見ただけでも納得できる(括弧内はサブタイトル)。

なぜ猫は鏡を見ないか(音の鏡と再帰的自己意識)
なぜ聴覚が生まれたのか(自己定位器と聴覚の起源)
なぜ魚群は一斉に翻るか(体の外部に開かれた聴覚)
なぜ音は調和して聞こえるか(物理的音波と認知的音像)
なぜ楽器で言葉を話せるのか(二足歩行と柔軟な調声器)
なぜ猫の仔とトラの区別がつくのか(両耳で聴く差異と反復)
なぜ歌は言葉より記憶に残るか(シェーンベルク=ブーレーズ・パルスの解決)
なぜ異なる歌を同時に歌いはじめたのか(長短と強弱の音声リズム)
なぜ理屈をこねても人の心は動かないのか(悟性が情動に遅れる理由)
なぜ落語家は左右に話す向きを変えるのか(潜水艦から空港騒音対策へ)

等々。そして,その問いは,作曲へとほとんどがつながっている。それは,民謡を採取したバルトークについて,

「バルトークはこれを『学説』として発表したわけではない。あくまで『楽案』として変奏を労作し,『楽曲』にまとめた…」

と語っているが,それは,そのまま,

「本質的な仕事をしたい。」

という著者自身について語っているに等しい。たとえば,「なぜ楽器で言葉を話せるのか(二足歩行と柔軟な調声器)」の章で,金属楽器に弱音器を挿入するというくだりで,

「弱音器をつけた金属楽器は『非現実話法』で語っている,という立場に立てば,複雑極まりないマーラーの総譜に従来とあきらかに別の視点から,系統だった解釈が可能になる。それが正解か誤解かを芸術音楽の指揮者は問わない。重要なのは,仮に誤読であっても一本の強い筋,響きの実体が伴った筋金入りの解釈の芯棒が通れば,そこから新しい音楽を読みだすことができる事だ。(中略)
さらに作曲の立場からは,こうした仮説を楽曲の構築原理に採用することで,新たな音楽言語のグラデーションを設けることができる。(中略)弱音器なしの奏法,金管楽器より変音が穏やかな弦楽器の弱音装着,金管の各種弱音器による異なる変音度合いを一種の『音階』のように見立てて,完全に『リアル』な世界から段階的に仮想性を増し,最後にはどう聞いてもウソっぽい,うさんくさくいかがわしい響きまで,弱音器を系統だって使い分けることができる。」

と書いている通りである。「音楽」を脳の問題として捉える,というのは,そういう先に来ている。

ひとつ例を出しておくと,たとえば,ルドンの「一つ目の巨人」を,初め両目で,次に,右目を閉じて見る。次に左目を閉じて見る。

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ほとんどの人が最初に両目で見たときの巨人の位置が「左目だけ」あるいは「右目だけ」とどちらかが単眼でみたときと同じで,もう一方の目だけで見たときには,ひとつめの巨人の位置が動く。

「視野の動かない方の目が『利き目』」

である。これは,目だけではなく,耳でも言える。電話がステレオでないのは,片耳で聴けば十分音声がつながるからではなく,

「人間は音声言語を『両耳で聞いてしまうと』理解力が下がってしまうからだ。『両耳マスキング』と呼ばれる」

ことが起きている,からだと言う。なぜなら,

「目や耳など末梢から入力された情報は,中枢神経系の複雑な処理を経て,言語の高度な意味を持って意識にそれと認識される。そうした処理には時間もかかるしエネルギーも食う。…二つの目や耳から入ってくる情報の片側については,早い段階で処理しなくなる。つまりスイッチオフして,余計な情報処理のエネルギーを節約していると考えられる。」

しかし,二つあることで,環境内の自己定位に,ステレオ視・ステレオ聴が有効で,視覚もそうだが,聴覚も,

「誰かが自分の名前を呼ぶようなとき,私たちは反射的に声のする方向を振り返る。両耳聴=バイノーラル・ヒアリングに注意が向くとき私たちの耳は反射的にステレオモードにスイッチがかわっている。」

このことを,意識して作曲や演奏している人は90年代までは皆無だったが,その目で見ると,ヴァーグナーは,総譜に「演出ト書き」の形で,声と楽器の空間配置と分布を詳細に記しているのである。つまり,

歌手の立ち位置,歌う方向による「両耳相関の違い」

が出ることを知っていたからである。音の空間を意識していた,と伺えるらしいのである。このことは,落語の語りにもつながるらしい。

「『熊さん』と「八っっさん」の会話を,噺家は姿勢を左右に変えて演じ分ける。…寄席で名人の落語を聞くと,左右の側壁に反射する声をコントロールして,小屋の響き全体から『熊さん』と『八っつあん』の違いを創り出している。…名人が適切に側壁をかつようすれば,二人の人物の声を聴き手の左右の耳に,交互にアクセントをつけてとどけることができる…。」

と。脳のことを知らなくても,名人たちは,研ぎ澄まされた感覚で,それを活用していた,ということである。

参考文献;
伊東乾『なぜ猫は鏡を見ないか?』(NHKブックス)
清水博『正命知としての場の論理』(中公新書)








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:13| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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