振り返ってみて,為したことも,大したことはないと,いまさらめくが,つくづく思う。
先日,ソリューション・フォーカスト・アプローチの,というよりミルトン・エリクソンの,というべきだろうが,森俊夫先生が亡くなられた,と聞いた。その一ヵ月前,癌だと伺ったと同時に,その直後,セラピーの現場に復帰されたとも伺った。まだ治療方針が決まっていない,というようなことも,最後まで現場に居られた,というのも伺った。
それほど個人的に存じ上げているわけではないが,何年か,吉祥寺に通った記憶があるし,ソリューション・フォーカスト・アプローチに,森先生と黒沢幸子先生のコンビのセミナーにも結構通わせていただいた(御著書もほぼすべて,エリクソンの訳書もほぼすべて読ませていただいた)。森先生の,あの独特のしゃべり口と,特徴のある息継ぎのされ方も,印象深く思い出す。また,ソリューション・トークと縁の深いAさんと,たまたま同席させていただく機会があり,その折,一ヵ月前にお見舞いにいったという話をされた後,
(人生の)残りの締め方,
という(か,終え方という)ようなニュアンスのことを口にされた。そこには,
いつまでも生きられない,
という口吻と,
やるべきことのけりをつけておかなくては,
というような緊迫感のような気配を感じた。それに引きずられたわけでもないが,柄にもなく,自分なりに,冒頭のような感想を懐いた次第である。
天については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163401.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163558.html
何度か書いた。天命,天寿,天理であるが,この場合は,
死生命有
富貴天に在り(『論語』)
でいう,死生命有り,「生き死にの定め」の方である。どこかに,
いつまでも(ずっと)生きられるつもり,
の気持ち,というか,時間が限られているのに,余分なことにうつつをぬかし,時間を無駄にしている,という思いがあるせいか,存知よりを亡くすと,はっとするのである。
しかし,明日死ぬと言われたところで,やり残した,ということがあるわけでもない。
随分昔,
会社というのは,社長の器以上には大きくならない,
というのを聞いたことがあり,中小,というより何社もの小企業を取材して回っていた時,実感としてもそれを感じさせられたことがしばしばあった。しかし,ま,人生というか,
その人の仕事,
というのも,当たり前だが,その人の噐以上のことはできない。逆に言うと,為したことが,おのれの器の多寡を明らかに顕現している。
原寸大の自分,
とか,
ありのままの自分,
というとき,世のそれを口癖に言う人の含意とは違い,
自分の器,
を受け入れる,ということなのではないか,という気がする。自分の出来る仕事の大きさについて,納得するということなのかもしれないのである。
変な喩えをすると,若い頃は,自分の可能性の容量を無限大に感ずる。しかし歳とともに,その容量の限界が,ちょうど風船を内側からのぞいたように,もうすぐそこに見える。はじめから,その容量には多寡が決まっていて,生きる時間を等量とすると,その人なりに,歳とともに限界が見えるが,もしそれを外から見たら,その袋の容量自体は,人によって格段に違うのだろう。結局その人なりのスピードと努力しかできない。それも含めて,原寸大である。
確かに,いくつになっても,ハイデガーの言うように,
死ぬまで,人は可能性の中にある,
には違いないが,可能性は,可能性であって,
必然性,
とも
蓋然性,
とも違う。可能とは,
可(よく)+能(できる)
が語源。実行可能であるというにとどまる。「必然」は,
必(必ず)+然(そうなる)
であり,必ずそうなるに決まっている,である。「蓋然」は,
「蓋(けだし,多分)+然(そうなる)」
が語源。多分そうなるだろう,ということである。
しかし,歎いても仕方がない,器は,
天賦,
あるいは,
天与,
である。清澤満之の,
天命を安んじて人事を尽くす,
でいう「安んず」とは,
甘んずる,
である。小は小なりに,当たえられた機会を,とことん,ぎりぎりまで,使い尽くす。まあ,それが,
天命,
である。おこがましいが,手塚治虫さんは,(亡くなる時)頭の中に,いくつかの作品構想を,もったままであったという。未完とは,継続中という意味だろう。それでいい。
今日のアイデア;
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