山鳥重『「わかる」とはどういうことか』を読む。
正直に言うと,群盲象を撫ぜるではないが,さまざまな切り口を枚挙してもらったわりに,
分かる,
ということが,なかなか分かった気にならなかった。というのも,わかる,ということには,知情意,というか,
知覚する,
感じる,
考える,
等々という領域と,「わかる」という領域とが,ベン図を例に言うなら,「わかる」という円と,その他の円がさまざまな重なり具合をしていて,たとえば,そもそも感受しなければ,わかるに至らないし,考えなければ,わかるということが必要ない,というように,きっちり境界を区分けできないせいかもしれない。さらに,
記憶する,
覚える,
学ぶ,
理解する,
経験する,
コトバにする,
等々の円とも,微妙に重なりあっている。
だが,僕のイメージするわかると,著者のそれとは,微かなずれがあった気がする。たとえば,著者は,「『わかる』の第一歩」として,
「単純なことですが,記憶にないことはわからないのです。言葉(記号音)の内容(記憶心像)を形成しておかないと,相手の言葉を受け取っても,心には何も喚起されません。(中略)「わかる」は言葉の記憶から始まります。そして言葉の記憶とは…名前の『意味の記憶』です。」
と述べる。不遜ながら,ああ,著者の「わかる」とは,そういうレベルのことを言っているのか,という幻滅がまず生じた。僕の知りたいのは,
腑に落ちる
とか,
納得する,
とか,
理解する,
という「わかる」であり,言葉の意味が了解できるということは,蚊帳の外にあった。本書の最後で,「わかる」のパターンを,
重ね合わせ的理解
と
発見的理解
の二つがあり,前者は,自分の頭にあるもの(モデル,知識,経験,感情,感覚等々)と重ねあわせること,であり,もうひとつは,答えが自分の外にあるもので,既知の答はなく,「自分で新しく発見していく」ものという。
僭越だが,間違っているのではないか。そもそも理解を,学習を,考えたとき,この二分法にしてしまうと,答えが外であろうと中であろうと,自分の中で考えて,
一つの答をひねり出し,
ああこうだったのだ,と納得するシチュエーションは,想定からはずされてしまう。答えが,外にあろうと,自分で考える操作は,常に,
新しい発見,
なのであって,それがアインシュタインの発見であろうと,幼児の発見であろうと,レベル差はあっても,
わかる,
ということの構造は同じである。あるいは,アルキメデスが,「Eureka」(「ユーリカ!」「分かったぞ!」)と叫びながら裸で通りに飛び出したというのもそれである。それを構造化するのが,
「わかるとはどういうことか」
の答でなくてはならない。著者は,「わかる」の土俵を,取り違えているようにしか,ぼくには見えない。たとえば,
「わかる」のわかり方を,
全体像がわかる,
整理するとわかる,
筋が通るとわかる,
空間関係がわかる,
仕組みがわかる,
規則に合えばわかる,
を類別しているが,その「わかった」というときを,
直感的に「わかる」
まとまることで「わかる」
ルールを発見することで「わかる」
置き換えることで「わかる」
と整理する。しかし,それは「わかる」ということの衣装が整理されているのであって,「わかる」ということ自体には踏み込めていない気がしてならない。この類別に当てはめる「わかる」は,
わかったのではなく知識をえた,
だけだ。では,なぜ,知識を得ると,
わかる,
のかが,踏み込めなければ,「わかる」という巨象の皮膚を撫ぜたにすぎない。吉本隆明は,
知ることは,超えることの前提である。
という言い方をした。だから,わかることの手段として,知をえることは,大事には違いないが,なぜ,知を得ると,わかるのか。
僕の億説に過ぎないが,わかる,ということは,
新しいパースペクティブ,
を得ることなのだと思う。
新しい視界,
と言い換えてもいい。メタ・ポジションを手にする,ということだ。それは,
新たな地平に立つ。
ということになる。だから,視界が開ける。よく,わかった瞬間,
頭にランプがともる,
というイラストが描かれるのは,
そのサーチライトで照らす
ことで,いままで照らされていなかったところに光が当たり,新たに見えてくることがあるだ。そこを詳らかにしてほしかった。
参考文献;
山鳥重『「わかる」とはどういうことか』(ちくま新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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