判官びいきは,
判官贔屓
とあて,
ほうがんびいき,
とも
はんがんびいき,
とも読む。判官びいきとは,
「第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには『弱い立場に置かれている者に対しては、敢えて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう』心理現象を指す。」
のだという。「客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情」だから,理屈ではない。心情的な,ファン心理に似ているのかもしれない。『大言海』は,「はうぐをんびいき」として
「判官は,左衛門少尉,兼,検非違使判官(ジョウ)たりし源義経を云ふ。文治以後,兄頼朝と不和ありて,遂に追討せられ,甚だ不遇なりしを憐れむより起こる」
とある。転じて,「弱者に与すること」とも。で,
「『判官』の読みは通常『はんがん』だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは伝統的に『ほうがん』と読む。」
のだそうだ。元来,
「日本人は判官贔屓という言葉の成立前から、伝統的に同様の感情を抱いてきた」(上横手雅敬 『源平の盛衰』)
のだそうだが(僕はそうは思わないが),判官びいきというのは,
「弱い者いじめの反対、つまり、弱きを助け強きをくじくという言動に対しては、無批判にかっさいを送ろうとする心理」「弱者の位置に立たされたものに対しては、正当の理解や冷静な批判をかいた、かなり軽率な同情という形をとる」(池田弥三郎 『日本芸能伝承論』)
というのだそうだ。江戸時代には,「一般に、弱い立場に置かれている者に対しては、敢えて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象となっていた,という説がある。
だから,「人々は贔屓の感情を次第に肥大化させ、歴史的事実に基づいた客観的なものの見方を欠くようになり、ついには短絡的に義経を正義、頼朝を冷酷・悪ととらえるに至った」
と指摘もある。まあ,その意味では,忠臣蔵もそうだし,山中鹿之助もそうだし,楠正成もそうだし,日本武尊もそうだし,あるいは真田幸村もそうかもしれないし,天草四郎もそうかもしれないし,大友皇子もそうかもしれないし,大津皇子もそうかもしれない。
しかし,僕は,弱いものの肩をもつ,というのが,日本人の心情とは思わない。たぶん,そういう心情が発揮されるのは,我が身に危険が及ばないかぎりのことだ。弱者や被植民地の人を,平気で,差別し,平気で,抑圧し,平気で,暴力を振ってきた(埴谷雄高は台湾でそれを目撃したことを書いていたはずだ)。いまもまた,いじめについて,外からは,いじめられるものを,判官びいきする。しかし,自分に火の粉が飛んでこないかぎりだ。当事者になった途端,
長いものに巻かれ,
平気で,一緒になって,いじめる側に回っても,平然としている。それを,別に非難する気もないし,咎める気もない。ただ,
「日本人の真情」
等々と,一般化してはならない。たぶん,人は,一般に,対岸の火事なら,同情もし,贔屓もする。しかし,我が身に火の粉が降りかかってまで,弱者を庇う生き方をすることは,なまなかの思いつきや意思ではできない。
いい例は,(ずいぶん昔亀田興毅とファン・ランダエタフ)ボクシング試合で,負けたかに見えた亀田興毅が判定勝をした試合後,
「敗れたファン・ランダエタ選手の母国ベネズエラの日本大使館に、日本から数千通にも及ぶ激励のメールが殺到したというのである。その内容は、『あなたの勝ちだった』、『こんな問題で日本を嫌わないで欲しい』、『あなたがチャンピオンだ』など」
という例だ。一見,フェアを尊ぶように見える。しかし,それは,観客としてであって,当事者になった瞬間,豹変する。その後の,すさまじい,
亀田興毅バッシング,
は,下手をすれば押しつぶされかねない。その後も,ちょっとしたことで(あるいはそう意図して煽られただけで),暴風雨のようなバッシングに曝された人が何人もいた。小沢バッシングもそれだ。
理非曲直,
等々問わない。判官びいきは,容易に,
身びいき,
や
依怙贔屓,
に転換する。「贔屓」とは,
気にいったものに特別に目を掛ける,
であり,理屈も根拠もない。感情の好き嫌い,と同じレベルである。和語の「ひいき」の語源は,
「引き」
である。引き立てる,の引きである。では漢字はというと,
「贔」は,貝(財物)を三つ合わせたもので,重い荷物を背負うことで,鼻息荒く怒る,という意。
「屓(屭)」は,「尸(からだ)+贔」で,体を重いものの下にいれて,ひいひいと頑張ることを示す,鼻息の音を表す擬態語で,ひいひいと鼻で息をする意。
で,贔屓は,語義上は,「鼻息荒く力んで,他人のために後援すること」という意味になる。ただ,「贔屓」は,
中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)
と言うらしい。
「贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。日本の諺『贔屓の引き倒し』とは、『ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない』という意味の諺だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるからに他ならない。」
のだそうだ。いま,その心情的な暴風雨が,どの向きに殺到するのか,当事者になったとき,それを避けるすべはない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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