2015年06月07日

プライド


奥井智之『プライドの社会学』を読む。

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サブタイトルが,「自己をデザインする夢 」とある。

冒頭,ジェーン・オースティンのPride and Prejuiceの訳を問題にする。

高慢と偏見

自負と偏見

と訳される。著者は,小説中のエリザベスの台詞を,エビグラフに,自身の訳で,

「あちらがプライドをもつのは勝手です。しかしこちらのプライドを傷つけるのは許せません」

と掲げる。あるいは,prideを「誇り」と訳す例もある。著者は,「おわりに」で,これを巻頭におにいた理由を,

「それが『プライドの何であるか』をよく表しているからである。」

と,そして,この(エリザベスの)言葉は,

「Aがプライドをもつように,Bもプライドをもっている。それゆえにAは,Bのプライドを安易に傷つけてはならない,と。もう一歩踏み込んで言えば,彼女は,こう言っている。人間はだれしも(AもBもCも…),他者のプライドを傷つけやすい,と。」

とも付け加える。そして,

「本書は,プライドに関する社会学的考察を試みるものである。一般にプライドは,心理的な事象と理解されている。実際ブライトは,もっぱら心理学者によって論じられてきた。しかしそれは,一個の社会的な事象ではないかというのが本書の出発点である。」

と,問題意識を述べる。僕は,それに強く惹かれる。人は,自己完結して生きていない。人との関係の中で,心理がある。そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418428694.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413639823.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/397281789.html

等々でも触れた。関係の物象化(人間と人間の関係が,物と物の関係として表れてくる)という概念がわかりやすい。ときに,帰属するものにプライドを置く。で,本書では,

自己,家族,地域,階級,容姿,学歴,教養,宗教,職業,国家,

と章立て,プライドの依拠するものを順次追っていく。それを,ジンメルを引用しつつ,

「一般に秘密は,何かを隠蔽することをさす。しかし,秘密は,一個の矛盾を孕む。というのも隠蔽することで,かえって他者の注目をあつめるから,と(『社会学』)。その意味では秘密は,装身具と同等の機能を持つ。
 その装身具についてもジンメルは,面白い考察を行っている。装身具は本来,自己の優越性を示すためのものである。しかし装身具は,一個の矛盾を孕む。というのも他者の羨望なしには,自己の優越性はしめせないから,と。いったいここで,ジンメルが言わんとすることは何か。それは人間存在が,個別性と社会性の矛盾のなかにいるということであろう。そういう矛盾を孕むというのは,本書の主題であるプライドのばあいも同じである。」

と書き,プライドを位置づけ,こう定義する。

「プライドとは『自分や自分の属する集団を肯定的に評価すること』である。と,当然これとは逆に,『自分や自分の属する集団を否定的に評価すること』もありうる。」

だから,プライドは,

「自己準拠的(self-referential)なシステムである。これは,プライドの基準が,自分自身の中にあることさす。したがってプライドをもつ/もたないは,最終的には本人次第ということになる。」

自己準拠は,一般には自己言及という言い方をする。著者は,しかし,プライドを自己完結させない。

「各人がプライドを自由に操作できることを意味しない。たとえば心理学的に,『どうすればプライドをもてるか』を論じることは勝手である。しかし実際には,プライドの操作はそう簡単ではない。というのもプライドの基準は,個人的なものであると同時に社会的なものであるから,その意味ではプライドもまた,個人性と社会性の矛盾を孕んでいるのである。」

これを読んで,僕の中のもやもやが言語化された気がする。プライドは,他人の存在,他人との関係,はっきり言って他者の承認や認知抜きには,プライドとして機能しない。だから,ある意味,

「わたしたちがプライドをもつのは,私たちが集団のメンバーであるからである。」

と,著者が言うのにつながる。コミュニティの認知がいるのである。それを,

「『わたしたち』は『かれら』と異なることで,『わたしたち』たりうる。そして『わたしたち』こそが,わたしたちにとってのプライドの源泉たりうる,と。」

と,公式化してみせる。で,

「コミュニティこそがプライドの源泉である」

という仮説を表現する。このコミュニティとは,「私たちという意識で結ばれた集団」をさす。

著者は,フロイトを借りて,

「人間は現実の自我とは別に,理想の自我=理想化された自己像をもっている。それは人間に,自分の『あるべき姿』を提示する…。…そこでは人間がプライドをもつ=自己自身を価値的に評価することの心的機制が解明されている」

と説明し,さらに,エリクソンのアイデンティティという概念を借りて,こう付け加える。

「アイデンティティ(自分が何であるのか)概念はそれ自体,『理想の自己』の表明にあたると私は思う。したがってそれは,『現実の自己』との間で軋轢を生じずにはすまない,と。エリクソンはアイデンティティが,社会的な文脈のなかで形成されると捉えている。すなわちアイデンティティは,(自己完結的なものではなく)他者による承認を必要とするとしいうわけである。」

しかし皮肉なことに,

「まさにコミュニティが壊れたときに,アイデンティティが生まれた」

のであり,「アイデンティティはコミュニティの代用品」(Z・バウマン)なのである。それゆえに,プライドをもつこと,

「すなわた自分自身に誇りをもつことが,わたしたちの生存の条件」

なのである。本書の面白いところは,プライド,つまり自己準拠的(self-referential)なシステムは,

「『予言の自己成就』や『ピぐマリオン効果』(教師のきたいによって,生徒の学力が向上する)と同じく,『トマスの公理』(ある状況を現実と規定すれば,結果としてそれが現実になりがちである)と同系列の心理的・社会的機制(メカニズム)ではないか。つまりはプライドのありようで,わたしたちの生のありようが変っていくのではないか。その意味ではプライドは,私たちの生の原動力になっているのではないか。」

という記述である。しかし,現実は,地域社会だけでなく,家族も含めて,社会解体ないし個別化が進行し,コミュニティは日増しに見つけにくくなる。

「はたしてコミュニティのない状況で,私たちはプライドをもつことができるであろうか。」

だから,現実のコミュニティに代わって,「理想のコミュニティ」を希求し,待望していく。いまや,SNSのようなネット上の仲間も,ほんの小さな教室や学習仲間も,その代替品になっている。

「たとえばグローバリゼーションの時代に,ナショナリズムが勃興するという逆説がある。同様に,理想の自己,家族,地域…についてのイメージは,わたしたちの周囲に満ち溢れている。よくも悪くもそれは,人々のプライド回復のための方策なのである。今日『理想のコミュニティ』の果てに人々が見出すものは,いったいなんであろうか。」

本書は,自己,家族,地域,階級,容姿,学歴,教養,宗教,職業,国家と,各章で,それを順次追っていく。

正直言うと,最初の「はじめに」に比べ,だんだん散漫になっていって,焦点が合わなくなっていく。「さいごに」で,著者はこう明かす。

「本書は,十の主題×六つの素材=六十の小話から構成されている。その六十がそれぞれ一定の独立性をもっている(極端に言えば本書が,六十のまとまりのない話から構成されている)」

のは,結果として,

「『プライド』(という得体のしれないもの)にあちらこちらからスポットライトをあてるという体裁になった。」

という。「はじめに」の意気込みに反して,

自己準拠的(self-referential)なシステム

の社会的文脈での構造を分析するというよりは,社会的文脈のなかでのプライドの現れ方を書いてしまった,ということになる。「はじめに」との落差が大きいのが,ちょっと残念な気がしてならない。

参考文献;
奥井智之『プライドの社会学: 自己をデザインする夢 』(筑摩選書)









今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:00| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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