2015年06月23日

花火


先日,ご縁があって,『師弟ヤング・マスター~僕と先生との十日間~』を観た。

http://www.acfactory.com/%E5%85%AC%E6%BC%94%E6%83%85%E5%A0%B1.html

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倉田アクションクラブ40周年×ACファクトリー20周年と題されているが,どちらかというと,

「師匠倉田保昭と弟子たちのコラボ公演」

がウリらしい。まあ,まだ倉田保昭さん(御歳70歳…!)がご健在なのが驚きだが,最前列にかぶりついてみていたせいもあるが,さすがに,格闘場面は,少しふらついた(ように見えた)し,ご本人も,「けっこうつらい」と最後のご挨拶で述べられていたように,(お歳という色眼鏡のせいか)ちょっと痛々しい感じがなくもない(失礼…!)。

梗概に,

「空手には全く興味のない一人の青年が、 ひょんな事から関わることになった潰れかけの空手道場。 そこにいるのは風変わり師匠と、一癖も二癖もある奇妙な弟子達。 青年は無理矢理、空手道場に入門させられるのだが…。
道場存続のため生徒募集に試行錯誤の弟子達。 そして空手道場で巻き起こるハプニングや大事件の十日間。」

とあるように, ある意味空手と格闘シーンがウリの舞台なので,舞台の結構がどうの,構成がどうの,と言ってみたところで仕方がないが,青年の語り手役としての説明が,場面と重複して,結構煩わしい。なくても,観ている側には十分わかる。この語りのための場面展開が,一種の暗転代わりになってはいるが,その分スピード感を削ぐ。単純にフェイドアウトさせないで,あえて,予告的に語らせる意図はよくわからなかった。

敢えて勘ぐると,劇進行についての親切なのだろうか。しかし大きなお世話という感じがなくもない。その分,進行のスピード展開が遅れ,場面そのものに向いている観客の視線を,わざわざ場面と切れた,ちょうど幕前で進行を説明する「ト書き」を設けているような,場面の流れから視線を外させるような気がして,気になって仕方がなかった。こういう構成は,前にも観たことがある気がするが,それは,ピエロ役のような,場面の展開上,部外者であることが多いような気がする。

ここは勘ぐりだが,「僕と先生との十日間」というサブタイトルの,「僕」を語り手にしようとする,当初のシナリオの意図の残滓が,そのまま残ったという感じではなかろうか。

閑話休題。

帰路,たまたま買った夕刊(『日経新聞』)に,演劇評論家の扇田昭彦さんの,

「(舞台は)花火のように,ひとたび生まれては消え去る運命にある。」

という言葉が(「遠みち近みち」というコラムに)載っていて,眼を惹かれた。ライブというのは,確かにそういうものだ。だから,観客の「記憶に残す」しか,生き残らない。その意味では,「人は二度死ぬ」という言葉になぞらえれば,舞台の幕が下りて以降,観た人の記憶に残すことで,芝居は生きのびていく。それには,

ストーリー自体か,
登場人物の生きざまか,
目を瞠る振る舞いか,
気の利いた台詞か(「偶然は三度目まで,それ以降は必然」といった台詞が残ったが),

等々,何かで観客の心にフックを掛けるしかない。

その意味で,僕は,この芝居は,

アクション(空手)そのもの
なのか,
アクション(空手)をめぐるなにくれ

なのかが,別れ道のような気がする。前者なら,アクションが主役だ。後者なら,アクションは添え物になる。

(制作者の意図は)どっちだったのだろう。

ただ,舞台という固定された空間でアクションを見せるには,手段は限られている。

以前よく見ていた,『劇団☆新感線』の舞台でもそうだが,パンもズームも効かない舞台では,格闘シーンは,格闘している人たちが,舞台に出たり引っ込んだり,つまり,場面の展開ができないので,闘っている演者同士が(そうやって出たり入ったりして)動き回って展開していくしかない。その場合,限られた空間で,格闘シーンを迫力あるように見せるには,

その場での格闘する人たちの格闘のらしさ,

例えば,投げたり,飛んだり,飛ばされたり,という動きの激しい変化だが,ワイヤーアクションでないかぎり,肉体のキャパ以上にはいかない。となると,固定した場面で迫力を出すには,

格闘しているシーンを流れさせるのではなく,(現実の立ち合いがそうであるように)徹底的にその場で格闘する,

か,固定した場面で生かせる空間は,上下しかないので,

上下,つまり落下するシーン,

に見せ場があるのだろう。上下は限界があるにしろ,それはこの舞台上で何度かあった。これは舞台の地響き(?)と同時に痛さが伝わってくる。

その意味で,僕個人の好みで言うなら(この舞台では特に),一対一の格闘を,その肉体のぶつかるさまを,芝居として,徹底してほしい気がしてならなかった。その機会は,二度,師匠自身と他流者と,兄弟弟子同士と,あったが,ちょっとさらりと交わされた感じであった。その意味では,この芝居では,実は,

アクションは添え物,

の方だと,観ている側としては受けとめた。

「娯楽」というのは,中国語の,

「娯(たのしむ)+楽(舞い楽しむ)」

から来ているらしいが,英語の,エンターテインメント(entertainment)は,もてなす,歓待する,という意味だが,

enter「間」+tain「保つ, 含む」+ment,

つまり,「人と人との間をとりもつこと」の方がピンとくる。となると,どちらも(倉田アクションクラブもACファクトリー),

アクション

が出自なんだから,アクションが取り持ってくれるはずである(まして倉田保昭さんなんだから)という,観る側の先入観を,この脚本では,あるいは,少し意図して外そうとしたのかもしれない。最後の秘伝書の落ちは,その外しの流れかと思うと,なかなか洒落ている。いやそもそも,

「師弟ヤング・マスター~僕と先生との十日間」

というタイトルがもつ,何となくイメージする(武道に関わるといった)期待を,劇では意図して外している。その外し方に,工夫がある,と言えば言えるのかもしれない。







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:11| Comment(0) | 劇評 | 更新情報をチェックする
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