2015年07月03日

絶望


瀬木比呂志『絶望の裁判所』を読む。

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三十三年間裁判官として勤務してきた元裁判官の,今日の裁判所の実態報告である。正直,読むほどに,タイトルのもつ意味が,心の奥底に沁みてくる。

裁判所内部の官僚機構については,本書を読んでいただくしかないが,今日,裁判官にとって「裁判」とはどういう意味を持っているかは,次の記述に現れている。

「現在マジョリティーの裁判官が行っているのは,裁判というよりは,『事件』の『処理』である。また,彼ら自身,裁判官というよりは,むしろ『裁判を行っている官僚,役人』,『法服を着た役人』というほうがその本質にずっと近い。
 『先月は和解で十二件も落とした』,『今月の新件の最低三割は和解で落とさないときつい』などといった裁判官の日常的な言動に端的に現れているように,当事者の名前も顔も個性も,その願いも思いも悲しみも,彼らの念頭にはない。…訴訟記録や手控えの片隅に記された一つの『記号』に過ぎず,問題なのは,事件処理の数とスピードだけなのである。」

当然それは,裁判所内部の統制というか,管理体制の反映でもある。

「異論を許さない一種の全体主義体制であり,私のような単なるリベラル,自由主義者に過ぎないものにとってさえ,もしも公式見解と異なった意見を何ごとについてであるにせよ抱いているならば,もはや居場所がないような体制ということになる。」

それは,今の立法,行政とも軌を一にしている。上の覚えをめでたくしようとすると,

「たとえば名誉棄損やプライヴァシーと表現の自由が衝突する訴訟のように,あるいは労働訴訟のように,広い意味での『価値』に関わる事案,行政訴訟や国家賠償請求を始めとする権力のチェックに関わる事案,大企業に対する消費者の請求や医療過誤損害賠償請求等の,当事者双方の有する情報に大きな差のある事案,原告によって新たな法的判断が強く求められている事案」

等々について,基本的に日本の裁判官は,

「及び腰,おっかなびっくりであり,難しい判断を避けようとする,あるいは単に先例に追随しようとする」

傾向が強い,という。それは,おおよそ,裁判の結果をみると予想できるし,市民が勝訴する事案について,政治家が平気で裁判官の個人的思想・信条のせいにする言動を,何度も見てきたのだから。そして判決文も,

「長くてこまかいがわかりにくく,しかも,肝心の重要な争点に関する記述がおざなりであったり,形式論理で木で鼻をくくったように処理されていたりすることが多い。認定事実と法理の結び付きがあいまいで,判断のメルクマールが明らかでないことも多い。要するに,のっぺりした官僚の作文という傾向が強い。これは,…根本的には,裁判官が真摯に事案にコミットしようという心構えが乏しく,また当事者のためにではなく,上級審にみせるために,あるいは,自己満足のために判決を書いているという側面がおおきいことによる。」

と断定してはばからない。それは,

「裁判官が困難な法律問題にみずからが主体的に取り組むことを避けたがる」

傾向があるが,その理由を,和解を強要,押しつけする傾向から推測することができる。昨今,「裁判迅速化の要請を背景に,和解」を迫る,しかも,

「裁判官が当事者の一方ずつと和解の話をする」

のであるが,これは,国際的にいえば,「手続保証違背」である。相手方は,その内容を知り得ないのだから。しかし,にもかかわらず,和解を強要するには,二つの理由がある,と著者は言う。

「一つは要するに早く事件を『処理』したい,終わらせたいからである。裁判官の事件処理については毎月統計が取られており,新受件数が既済件数を上回り,いわゆる未済事件が増加すれば『赤字』となって,『事件処理能力』が問われるし,手持ち件数も増えるから,みずからの手元,訴訟運営も苦しくなってくる。」

そして驚くべきことに,

「もう一つの理由は,判決を書きたくないからである。これには,…困難な判断を行うことを回避したいという場合もあるが,それはまだいいほうで,単に,判決を書くのが面倒である,そのために訴訟記録をていねいに読み直すのも面倒である,また,判決を書けばそれがうるさい所長や高裁の裁判長によって評価され,場合により失点にもつながるので,そのような事態を避けたいなどの,より卑近な動機に基づく場合のほうが一般的である。」

これは,司法の劣化,というより司法の崩壊である。その結果は,

「新しい判断をきらう」
「有力な傾向に追随する」
「争点に関連する範例群の批判的検討を行わず,事大主義に大勢に従う」

という傾向になって現れる。それは,裁判所機構全体の劣化の結果(成果なのか?)と言っていい。著者は,

「時代や社会の流れが悪い方向に向かっていったときにその歯止めになって国民,市民の自由と権利を守ってくれるといった司法の基本的な役割の一つについて,日本の裁判所,裁判官はほとんど期待できないことを意味する。」

と警鐘を鳴らす。

「追随,事大主義を旨とする裁判官が,時代の雰囲気,『空気』に追随し,判例の大勢にしたがって流されていってしまうことは,明らかだからである。」

それは,いつか来た道である。

「太平洋戦争になだれ込んでいったときの日本について,数年のうちにリベラルな人々が何となく姿を消していき,全体としてみるみるうちに腐っていたという話」

は,もはや過去のことではない。当然裁判所の機構の締めつけ,統制は,個々の裁判官に影響を与える。著者は,トルストイの『イヴァン・イリイチの死』の主人公イヴァン・イリイチを再三,例に挙げる。まさに今日の日本の裁判官の官僚性と内面の空虚さを,よくあらわし,

「私は,裁判官時代に,何人ものイヴァン・イリイチや多数の潜在的なイヴァン・イリイチをみてきたように思う。」

と。しかし,著者は,絶望し,ただ批判しているのではない。

「俺は常に個人的見解を持った一個人として生きてきた。もし,自分が存在している意味があるとすれば,みんなに不可能が可能になるっておしえてやることだ」

というボブ・ディランの言葉を引きながら,

「あなたも,私も,およそ人間というものは,不可能を可能にするためにあまれてきたのではないかと,私は,考えている」

と,あとがきで締めくくっている。

三法(三権)分立どころか,政治に一元支配され,いまや,日本は岐路に立っている。というか,既に,ティッピングポイントを越えてしまったのかもしれない。しかし,まだ,戻れると希望を持たなかったら,ただ,地滑り的に地獄へ堕ちるだけである。

参考文献;
瀬木比呂志『絶望の裁判所』(講談社現代新書)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:13| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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