先日,といっても先々月のことになるが,ワークショップに参加させていただいた。
https://www.facebook.com/events/919100084812776/
このシリーズについては,何度か書いたことがある。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/418428694.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/419595148.html?1432585640
今回のテーマは「自分を観察するには」。
観察とは,
「起きていることに注意深くなり,今ここにいるということです。観察者の状態になると,私たちは気持ちとつながることができます。感情や気持ちに意識的になることで,それらを変えることができるのです。」
と定義している。たとえば,相手が怒っているとする。その相手が怒っているということを感じ取ると同時に,そのとき自分の中に何が起きているかを感じる必要がある。とっさに,動揺して逃げを打とうとするか,言い訳をしようとするか,反撥しようとするか,いずれにしても,その瞬間(このワークショップでは,仮面をかぶると言うが),自分を非難するか,自分を非難する。その(感情の)反応によって,そのとき自分の中で起きていることから目を逸らすことになる。
仮面については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/418428694.html
で書いた。それによって,避けようとしたのが,どういう気持ちなのか,たとえば,
混乱した,激怒したと言った気持ちなのか,
あるいは,
不安になった,落ち込んだと言った気持ちなのか,
といった気持を探る中に,そこで自分が欲していたもの(ニーズ)に突き当たることができる,とする。怒った相手と,わかりあいたいと思っていたとか,仲直りしたいと思っていたとか。
気持ちは,
直接的で,単純,
とされ,現実の場面の中で,自分の内面で感じていることだ。たとえば,
寂しい,
と感じたが,それを逸らして,相手の怒りに反応して怒れば,その気持ちの背後にある,自分の求めているものから逸れていく。レジュメには,
「自分の内面で起きていることを感じることを受け入れない限り,気持ちは意識化されない。そのためには,自分の感じていることに対して,一切の価値判断や批判(たとえば,寂しいと感じる時分を情けないとか,女々しいとか評価)をせずに,観察者の立場に立つ必要がある。」(括弧内は筆者注記)
とある。当然,気持ちには,肯定的な快感もあるし,否定的な不快感もある。
要は,こうなのだろう。相手との関わりの中で,相手が何か言ったことに,反応的に,「むっ」としたとする。そのとき,その反応の中には,
自分を馬鹿にした,
とか
上から目線とか,
とか
嫌味を言った,
といった相手への直線的な感情反応(是非の判断)をする。その感情は,
身体的または精神的に,急激にかき乱されておきる激しい情動(喜怒哀楽)
と定義される。そして,
自分に関する恐れがきっかけとなって,(相手を)非難し,動揺する
ということになる。必要なのは,自分の気持ちを,感じとり,言語化することなのだ,という。
怒り,
は,怒ることでも表現できるが,
「怒っている」と伝えること
でも表現できる。怒れば,怒りの反応を誘うだけだ。いつも感じるが,この辺りの,内面の表現は,アサーティブと通じる。しかし,自分の気持ちが,自分でわからなければ,それを伝えることはできない。
ある意味,
相手の怒りを感じる自分,
相手の怒りに反応して起こる感情,
その感情の背後にある自分の正直な気持ち,
その気持ちを懐かせる相手に求めているもの,
と,たどれることは,いわば,相手と自分を俯瞰する,メタ・ポジションに立っていくことになる。それが,
観察,
という謂れなのだろう。その一瞬の自分の中に起きていることに注意を払う,つまり,逃げず,臆せず,その場にいることが,観察を,
今ここにいる,
といっている理由なのであろう。
最後に,自分の体験を観察するワークらやったが,
そこで何を考え,相手の何を責め,自分の何を責めたか,
そのとき,何を怖れたのか(逃げたのか,避けたのか,というのもあるかも),
を振り返り,そこにあった,自分の気持ち,身体のどこで感じたか,を探った。
過去のことだからこそ,
そのときの相手,
そのときの自分,
そのときの感情,
そのときの気持ち,
にメタ・ポジションが取れた。だからこそ,観察の構造の確認でもある。それを,
いま,そのとき,
にもする,ということが眼目である。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
ラベル:自己観察