2015年07月08日
融合
先月のことになるが,「人を探求する」ワークショップに参加させていただいた。
https://www.facebook.com/events/1712560162304834/
今回のテーマは「敏感でいることを妨げるもの〜融合について」。前回の,自分自身についての観察については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/421923440.html?1436213892
で触れたが,観察するポジションにおいて,
自分自身に敏感であること,
が求められる。これについては,前回多少触れた。敏感であるということは,
いま,ここで,自分の中に起きていること,
あるいは,
自分の感情に,
アンテナを向けること,と言い換えてもいい。何のためかというと,その場や周囲に反応するのではなく,
自分の内側で何が起こっているのか,
自分が本当は何を望んでいるのか(ここではニーズと名付ける)を見つけるため,
である。言ってみれば,相手や状況や関係の中で振幅し,あるいはそれにシンクロして振り回されているのではなく,
そのとき自分は何を感じ,
そこに自分は何を求めているか,
という自分自身を確かめるため,ということになる。例えば,
相手の悲しみに共鳴し,我が事のように歎き悲しむ,
とか,
相手の怒りに反応して,怒りで返す,
というときの自分の感情は,ここでは,
融合
と名付けられる。言ってみると,自分自身の内的な思いや感情ではなく,相手の,
共鳴器
のように,相手に合わせて鳴っている感情と,自分の感情を切り分ける(たとえば,いまの悲しみは,相手のそれに共鳴してもらい泣きしている等々,これが敏感ということになる)ことが必要だ,ということになる。
融合的な人について,レジュメでは,
「他の人の感情の状態に圧倒されている人。融合的な人は,他の人の起源,気持ち,感情(怒り,怖れ,痛みなど)や願望を拾います。そしてそれらにかき乱されます。他の人の感情から自分を切り離すことや,距離を置くことができません。」
とある。相手の感情に影響されて,
自分で感じられなくなり,
「他の人の感情の状態を自分で経験しているかのように」
なる,ということになる。多くは,ここでは,母親との関係によって,その傾向が出てくる,としているが,融合には,二つのパターンがある,という。
ひとつは,過敏な人。
「過敏な人は,廻りの人たちの幸,とりわけ不幸に責任を感じます。いろいろやっても,その気持ちは続き,最終的に,無力感や罪悪感を持ちます。」
とある。他人の感情まで背負いこみ,我が事のように受け止めて,それを自分の責任であるかのように感じる。しかし,他人の人生を生きることはできない。確かに,そういう人は,
いい人ではある,
かもしれないが,他人の人生を背負い,(それを背負いこめるかのごとく無意識のうちに)抱え込んでいる,ということになる。
もうひとつは,無関心な人。
自分の感情や願望ではなく,相手の愛情を得られるように相手の要求に応えようとする。母親との関係で,
「子どもは,自分の感情の世界には無関心ですが,母親との愛情面でのつながりを作ることを期待して,母親の願望,要求,期待に融合して」
それに沿う(と思った)行動を取ろうとする。このタイプは,一見,
「人間関係において,冷淡な人,無関心の人のように思われますが,この人は愛してくれるとねらいを定めた人など,他の人の願望,要求,期待に確実に応えられるように,…神経を張り巡らせます。特に,神経を張り巡らせるのは,権威に対する関係においてです。」
つまり,
感情で同期するか,
相手の思い(願望,要求,期待)に同期するか,
いずれにしても,相手や周囲に振り回されて(あるいは過度に慮って),自分を見失っている,という意味では,
無関心
と
過敏
とは,「コインの両面」である。いずれも,
いま,自分の思いや感情ではなく,
相手の感情や思いに依存している,
ということになる。振り回されている,といっても,相手が,ではないので,あくまで,
自分の思い込みや思い入れ,
に過ぎない。そのベン図ふうに言うと,まずは,
自分が(勝手に)相手の円に重ねている,
ことを確認し,
重なった相手の円と自分の円を切り離し,
自分の円の内奥の求める感情や思いに耳をかたむける,ということが必要になる。自分は,
ほんとうは何をしたいのか,
ほんとうは何を求めているのか,
ほんとうは何を欲しているのか,
と。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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