2015年07月10日
器量
「縹緻」あるいは「器量」について書いているうちに,「器量」の方について,書き残したことを,ふたたび書く。
僕は,自分に器量も度量もないせいか,
器量,
度量,
雅量,
広量,
大量,
力量,
技量,
という,人の奥行を示す言葉が,昔から気になっていた。この中で,その人の大きさを示すのが,
器量,
度量,
雅量,
広量,
大量,
その人のもつ才覚,技能,能力を示すのが,
技量(「技倆」とも書く,腕前,技能の多寡),
力量(人の能力の大きさ),
だら,ここでは,前者の五つが,問題になる。しかし,器量を除くと,雅量(広くおおらかな度量),大量(度量が広いこと,広量),広量(度量が広いこと)は,いずれも,
度量
の大きいことを指しているので,度量と器量の対比,ということになる。因みに,「量」は,前にも触れたが,
「穀物のしるし+重」
で,穀物の重さを天秤で計ることを示す。穀物や砂状のものは,秤と枡のどちらでも計る。で,後に分量の意となるから,
はかる,
と,
かさ,
と,
ます,
の意がある。はかった嵩を取るか,はかった容量をとるか,どっちにしろ,大きさの程度という意味になる。
「器(噐)」は,
「口四つ+犬」
で,さまざまの容器を示す。犬は,朱ネイの多いものを代表している,とある。つまり,器は,
道具であり,
入れ物,
である。だからといって,器量は,その人の図体やがたいの大きさを言っているのではない。辞書的には,
その地位・役目にふさわしい才能・人柄,
才能・力量の優れていること,
ものの上手,
となっているが,むしろ,それなら,技量や力量と言えば済む。それも含めた,
人としての器の大きさ,
ということを準えているのだろう。「度」(ものさしのときは,ドと読む)は,
「又(て)+庶の略体」
とある。尺(手尺で長さをはかる)と同系で,尺とは,尺取虫のように手尺で一つ二つと長さをはかること,という意味らしい。だから,「度」は,
ものさし,
めもり,
基準,
といった尺度に関わるものが多く,そこからの転用で,
心・人柄のぐあい,
といった意味になっている(「態度」「大度」)。
そう考えると,「度量」は,
こころをはかる,
という意味なのだが,辞書的には,「長さと容積」「尺と枡」という意味の他,
心が広く,心を広く受け入れる性質,
となっている。
しかし,器量は,器を指し,度量は,物差しを指す,当然,
度量は,はかる側からの視点,
と
器量は,はかられる側からの視点,
を比べれば,常に,度量の側が,いわば,メタ・ポジションに立っている,という意味では,常に一歩先にいる,という感じであろうか。
だからか,器量の意味は,
その地位・役目にふさわしい才能・人柄,
才能・力量の優れていること,
ものの上手,
と,技量,技量のメタ・ポジションに立っているイメージである。まあ,力量や技量のある人,という意味である。ついでに,技量と力量を比較すると,
技量(「技倆」とも書く,腕前,技能の多寡),
力量(人の能力の大きさ),
で,力量が,技量のメタ・ポジションに立っている。技量は,力量の一部,ということになる。
力量,つまり能力については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/417632824.html
で触れたが,これは,そこでも書いたことだが,アージリスの言った,
コンピタンス
と
アビリティ
の区別で,より明瞭になる。コンピタンスとは,
それぞれの人がおかれた状況において,期待される役割を把握して,それを遂行してその期待に応えていける能力,
であり,ある意味,自分への役割期待を自覚して,そのために何をしたらいいかを考え実行していける力であり,それは,自分がそこで“何をすべき”かを自覚し,その状況の中で,求められる要請や目的達成への意図を主体的に受け止め,自らの果たすべきことをどうすれば実行できるかを実施して,アウトプットとしての成果につなげていける総合的な実行力,である。アビリティとは,
英語ができる,文章力がある等々といった個別の単位能力,
を指す。どうも,これは,Knowing howでしかなく,やれることの意味と目的がわかっている(Knowing that)のでなければ,知っていることにはならない。この両者かずあって,力量と言う,ということになる。これの許容量という意味で,通常力量とされるが,むしろその受容余地という意味で,器量こそが,キャパシティなのではあるまいか。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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