2015年07月16日

あなかしこ


「あなかしこ」は,

穴賢,

とも当てるらしいが,『広辞苑』では,

恐惶,

の字も当ててある。一般に,

アナは感動詞,カシコは,畏(かしこ)しの語幹,

と説明される。意味は,

①ああ,畏れ多い,もったいない,
②呼びかけの語。恐れ入りますが。
③(下に禁止の語を伴って副詞的に)けっして,くれぐれも,ゆめゆめ。
④畏れ多いとの意で,手紙の末尾に用いる語。恐惶謹言。

といったところである。ただ,『古語辞典』では,細かいようだが,

ああ,恐ろしい,ああ,恐縮である,

ああ,畏れ多い,もったいない,

を区別している。「穴賢」と当てる,「賢い」は,もともと,

「畏(かしこ)し」の転義,

とあり(『広辞苑』),

恐ろしいほどの明察の力がある,
才知・思慮・分別などが際立っている,
(生き物のや事物の)性状,性能が優れている,
抜け目がない,巧妙である,
尊貴である,
(めぐりあわせが)望ましい状態である,
(連用形を副詞的に用いて)非常に,甚だしく,

といった意味に転じているが,元来は,

「海・山・坂・道・岩・風・雷等々,あらゆる自然の事物に精霊を認め,それらの霊威に対して感じる,古代日本人の身も心もすくむような畏怖の気持ちを言うのが原義。転じて畏怖すべき立場・能力わもった人・生き物や一般の現象も形容する。上代では,『ゆゆし』と併用されることが多いが,『ゆゆし』は物事に対するタブーと感じる気持ちを言う。」(『古語辞典』)

という背景がある,とされる。とすれば,

畏れ多い

畏怖

畏敬

が先で,そこから,

優れている,
際立つ,

となり,

ありがたい,

と転じていく,というのはよく分かる。

しかし,僕の中では,「御文」の末尾の(独特の節回しで)言い回しのイメージが強い。

たとえば,法事で,菩提寺(真宗大谷派)の住職が,お経をあげた後,必ず席を替えて,詠まれるのが,たぶん(記憶に合うところを重ねてみると),

「夫 人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ觀スルニ オホヨソハカナキモノハ コノ世ノ始中終 マホロシノコトクナル一期ナリ
サレハ イマタ万歳ノ人身ヲウケタリトイフ事ヲキカス 一生スキヤスシ イマニイタリテ タレカ百年ノ形躰ヲタモツヘキヤ 我ヤサキ 人ヤサキ ケフトモシラス アストモシラス ヲクレサキタツ人ハ モトノシツク スヱノ露ヨリモシケシトイヘリ
サレハ 朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ ステニ无(無)常ノ風キタリヌレハ スナハチフタツノマナコ タチマチニトチ ヒトツノイキ ナカクタエヌレハ 紅顔ムナシク變シテ 桃李ノヨソホヒヲウシナヒヌルトキハ 六親眷屬アツマリテナケキカナシメトモ 更ニソノ甲斐アルヘカラス
サテシモアルヘキ事ナラネハトテ 野外ニヲクリテ夜半ノケフリトナシハテヌレハ タヽ白骨ノミソノコレリ アハレトイフモ中々ヲロカナリ サレハ 人間ノハカナキ事ハ 老少不定ノサカヒナレハ タレノ人モハヤク後生ノ一大事ヲ心ニカケテ 阿彌陀佛ヲフカクタノミマイラセテ 念佛マウスヘキモノナリ アナカシコ アナカシコ」

という,御文(おふみ)と言われるもので,末尾に必ず,「あなかしこ」がつく。当然手紙なので,末尾にある物なのだろう。

御文(おふみ)は,

「浄土真宗本願寺八世蓮如が、その布教手段として全国の門徒へ消息(手紙)として発信した仮名書きによる法語。本願寺派では『御文章(ごぶんしょう)』といい、大谷派では『御文』、興正派では『御勧章(ごかんしょう)』という。なお、本願寺が東西に分裂する以前は、『御文』と呼ばれていた。」

という。

「蓮如の孫である圓如が、二百数十通の中から80通を選び五帖に編集した物を『五帖御文(ごじょう おふみ)』という。そのうち1帖目から4帖目には日付があるものを年代順にならべてあり、5帖目には日付が不明なものをまとめてある。そのため、4帖目の最後、第15通「大坂建立」は、蓮如の真筆では最後の御文。遺言ともいわれる。」

という。上げた御文は,御文の5帖目第16通「白骨」(はっこつ)と呼ばれるもので,御文の中でも特に有名なものである,という。この御文は宗派により呼び方が異なるらしいが,大谷派では,

「白骨の御文(おふみ)」

とある。

たしかに,手紙形式を取っているので,末尾に,「あなかしこ」とくるのはおかしくはないが,

http://sairen99.cocolog-nifty.com/kotoba/2012/10/post-1c19.html

によると,

「『御文』を書かれた蓮如上人としては、
『親鸞聖人のおしえをいただき、その聖人のおしえやお気持ちを、謹んであなたにお伝え申しあげます』という気持ちがあったことだと思います。」

として,

「お手紙の書き手は、誰に向けて手紙を書いていると思いますか?
一番の対象は、手紙を差し上げる方ではなく、書き手自身だと思います。手紙は、相手に対する思いやりの気持ちを表現します(励まし・注意・感謝・お礼等々)。自分の気持ちと向き合った上で、相手に向かうのが手紙を書くということです。
差出人でありながら、宛先人でもあるのです。自分の気持ちと向かい合わなければ、手紙は書けません。
蓮如上人の『御文』は数多くありますが、それぞれ誰に宛てての「御文」なのか、だいたい分かっています(想定されています)。
確かに、それぞれの方に対して、親鸞聖人のおしえをお伝えしたい気持ちいっぱい(あなかしこ)にお手紙を書かれているのですが、それは同時に、蓮如上人自身がおしえに、自分自身に真向かいになることであります。」

と付け加えてある。ということは,それをよみつつ,住職もまた,

自身に向かって自問している,

という形式になる。手紙を繰り返し伝える,とは,読み手が聴き手に伝えるだけではなく,読み手自身も,蓮如をなぞって,自問する,というカタチになるのかもしれない。前記の書き手(真宗のお寺の副住職らしい)は,

「『あなかしこ』には、『謹んで“あなたに”お伝え申しあげます』という気持ちと共に、『弥陀の慈悲、親鸞聖人のおしえを、この蓮如、有り難くいただきました』という感謝の念が込められているように感じられます。
そのように感じられてこそ、『あなかしこ』が『南無阿弥陀仏』と聞こえてきます。」

とまとめている。あなかしこには,

畏怖

畏敬

(それが転じた)感謝

の思いがこもっている。

あなかしこ

には,手紙の末尾で,読んでいただいたことへの御礼もまたこもっているようである。

あなかしこ あなかしこ。





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posted by Toshi at 05:37| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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