生理
古井由吉『雨の裾』を読む。
古井由吉の文体は,
生理,
だと思う。皮膚感覚というか,内臓感覚というか,吉本隆明の詩に,
風はとつぜんせいりのやうにおちていった(「固有時との対話」)
というのがあったが,その生理の感覚そのものを描く,と僕は思っている。
古井由吉については,もう何度か書いた。吉本隆明 が言っていたと思うが,
「文句なしにいい作品というのは,そこに表現されている心の動きや人間関係というのが,俺だけにしか分からない,と読者に思わせる作品です,この人の書く,こういうことは俺だけにしかわからない,と思わせたら,それは第一級の作家だと思います。」
僕にとっては,古井由吉こそが,そういう作家だ。前作『鐘の渡り』については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395877879.html
で書いた。そこでも触れたが,随分昔,古井の文体について,
http://www.d7.dion.ne.jp/~linkpin/critique102.htm
で,自分なりに書き尽くしたので,後は,大体,楽しんで読んでいるつもりなのだが,今回,あれっと,思ったのは,
「躁がしい徒然」
「死者の眠りに」
あたりの文体が,少しく硬い,というこなれない印象があった。しかし,他の作品には,そういう印象はないので,ただの感覚だが,使われている言葉が,ちょっと違う,ということだ。たとえばだが,
「しかし老年がきわまれば,住み馴れた家を外からあやしみのぞくどころか,家の内にあっても夜中に,手洗いに立って迷うことがあるとか,かねてからそんな話を耳にするたびに,どういう惑わしなのだろうか,と我身の行く末を思って暗い気持ちにもなり,そして何日もしてから,未明に寝覚めして手洗いに立つ途中で,こんなことでもあろうか,とかすかに思いあたるようで,家の内をあらためて見まわすこともあるが,かりに寝惚けて床から起きあがる時に方向を取り違えたとしても,迷うにはなにぶん家が狭すぎる。そのうちに読んだ医学記事の,老化のすすんだ視覚のありようの分析によれば,眼の空間識の変調によって空間が展開図のように,前面にあるのも側面にあるのもひとしく平らたく,一面にひらいてしまう,と考えられるという。なるほど,それなら遠近も方角も失われて,家の内でも迷うはずだ。さらに,空間というものは視覚ばかりでなく聴覚によっても形造られているはずであり,この空間識の変調は視覚の狂いにつれての聴覚の狂いであり,老年の難聴もあるだろうが,戸外のさやぎやそよぎの,人心地のつく音をあらかた遮断した今の世の住まいのせいかとも思われた。」(「躁がしい徒然」)
この感覚は,まぎれもなく古井由吉のものだが,文体が,気のせいかちょっと違う気がした。
夢とうつつの狭間,
いまとそのときとの狭間,
こことあそことの狭間,
等々。狭間というか,ないまぜになったという感覚は,ちょうどベン図ふうに言うと,現と夢,自分と他人の円が,境界詮無く,重なっている,いや,その円が,一つ二つどころか,いくつも重なりあっている,古井そのものの世界だ。
おのれと他人との狭間(綯い交ぜ)
というのもある。それは,
自分というもののゆらぎ,
うつつと言うものの曖昧さ,
あると無いとの不確かさ,
という,日常感覚を,生理のようにたじろがせる,その感覚は,読むほどに,おのれ自身に食い込んでくる。たとえば,前回も触れたが,
それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。ところがそのうちに無数の木目のひとつがふと細かく波立つと,後からつづく木目たちがつきつぎに躓いて波立ち,波頭に波頭が重なりあい,全体がひとつのうねりとなって段々に傾き,やがて不気味な触手のように板戸の中をくねり上がり,柔らかな木質をぎりぎりと締めつけた。錆びついた釘が木質の中から浮き上がりそうだった。板戸がまだ板戸の姿を保っていることが,ほとんど奇跡のように思えた。四方からがっしりとはめこまれた木枠の中で,いまや木目たちはたがいに息をひそめあい,微妙な均衡を保っていた。密集をようやく抜けて,いよいよのびのびと流れひろがろうとして動かなくなった木目たちがある。密集の真只中で苦しげにたわんだまま,そのまま封じこめられた木目たちがある。しかし節の中心からは、新しい木目がつぎつぎに生まれ出てくる。何という苦しみだろう。その時、板戸の一隅でひとすじのかすかな罅がふと眠りから爽やかに覚めた赤児の眼のように生まれて,恐ろしい密集のほうへ伸びてゆくのを,私は見た。永遠の苦しみの真只中へ,身のほど知らぬ無邪気な侵入だった。しかしよく見ると,その先端は針のように鋭く,蛇の舌のように割れてわずかに密集の中へ喰いこみ、そのまま永遠に向かって息をこらしている……。私も白い便箋の前で長い間、息をこらしていた。(「木曜日に」)
その感覚の時間の流れそのものに沿って書く。しかし,先の引用は,「作家」とおぼしい書き手そのものが,曖昧になることはない。そのせいかもしれない。あるいは,たとえば,
「……私は、徒労感に圧倒されないように、足もとばかりを見つめて歩いた。そしてやがて一歩一歩急斜面を登って行く苦しみそのものになりきった。すると混り気のない肉体の苦痛の底から、ストーヴを囲んでうつらうつらと思いに耽る男たちの顔が浮んできた。顔はストーヴの炎のゆらめきを浴びて、困りはてたように笑っていた。ときどきその笑いの中にかすかな苦悶の翳のようなものが走って、たるんだ頬をひきつらせた。しかしそれもたちまち柔かな衰弱感の中に融けてしまう。そしてきれぎれな思いがストーヴの火に温まってふくらみ、半透明の水母のように自堕落にふくれ上がり、ふいに輪郭を失ってまどろみの中に消える。どうしようもない憂鬱な心地良さだった。だがその心地良さの中をすうっと横切って、二つの影が冷たい湿気の中を一歩一歩、頑に小屋に背を向けて登って行く……。その姿をまどろみの中からゆっくりと目で追う男たちの顔を思い浮べながら、私はしばらくの間、樹林の中を登って行く自分自身を忘れた。
だがそれから私はいきなり足を取られて,前のめりに倒れそうになって我に返った。」(「男たちの円居」)
たぶん,作品の結構も違うし,語り手の位置も違うのだが,なんとなく,難く感じるのは,説明になっているからなのだろう。若い頃の作品と八十代の作品を比較するのも,何だが,自分の気になったところに焦点を当てると,もうひとつ,同じように,
「記憶の時間の流れには幾僧かがあって,それぞれ遅速を異にするように思われる。その速い遅いの時間が,めぐりめぐって,ときたま一点で交わると,人は額へ手をやって,いつのことになるか,と迷ううちにこうして思い出しているいまがさらにあやしくなる。年を収るにつれて,頻繁というほどではないが,よく起こるようだ。朝の目覚めの際にもう一度思わず深くなった眠りから起き出してくると家の内の,見馴れたものが見馴れぬものに映る。いや,そうではない。あまりにも見馴れた様子をことさらに,まやかしのように,際立たせる。しかもいつだか格別の心境から眺めたことがあるように,遠いところから張りつめて,息をこらして,物の表情が浮かびあがる。見つめ返せば,物それぞれの,てんでに主張する鮮明さがかえってみる眼から識別の力を失わせる。つれて自分の立ちどころも知れぬようになり,ささやかながら昏迷の危機ではあるが,それでも何知らぬ顔でいつもと変わらぬ起きがけの言葉を家の者と交わしてのそのそと歩きまわっている。さすがにここまで生きた者のしぶとさと言うべきか。」(「死者の眠りに」)
たぶん,書き手は,感覚の外に立っているせいだ。そのせいで,説明に感じ,違いを感じた。木の目を見ている,「木曜日に」と好対照だ。
「雨の裾」
「夜明けの枕」
「踏切り」
がいい。しかし,文体は,やはり微妙に変わっているのに気づく。
「それきり雨は来なかった。だいぶして刻々の緊張の抜けた気持ちから,こうしていれば夜明けも近いなと男がつぶやくと,まだまだ明けはしないわ,と女は答えて立ち上がり,手提げから取り出してきてひらいたのを見れば,握り飯がふたつきっちりと包まれていた。すっかり忘れていたわ,でも,梅干しを入れてきたので,と女はちょっと鼻を寄せてから一つを男に渡し,もうひとつを自分に取った。さすがに病床から椅子を壁際へ引いて,顔を向かいあわせて食べることになった。女はひっそりとたべながら大きくひらいた目を男の目へ,見つめるでもなく,ただあずけていた。男は逸らすのも支えをはずすようで受け止めるままにしていると,口にした握り飯から女の手のにおいがふくらんでくる。肌を触れ合う以上のことではないか,と男は呆れた。」(「雨の裾」)
たぶん,書き手の位置のせいだ,と気づく。しかし,この,書き手が,誰か他人(ここでは友人)のことを書く,という入り方は,古井作品では,珍しくない。たとえば,友人の話を語る書き手の,
「原っぱにいたよ、風に吹かれていた、年甲斐もない、と友人はおかしそうに言う。見渡すかぎり、膝ほどの高さの草が繁り、交互に長いうねりを打っていた。風下へ向って友人はゆっくり歩いていた。夜だった。いや、夜ではなく、日没の始まる時刻で、低く覆う暗雲に紫色の熱がこもり、天と地の間には蒼白い沼のような明るさしか漂っていないのに、手の甲がうっすらと赤く染まり、血管を太く浮き立たせていた。凶器、のようなものを死物狂いに握りしめていた感触が、ゆるく開いて脇へ垂らした右の掌のこわばりに残っていた。いましがた草の中へふと投げ棄てたのを境に、すべてが静かになった。」(「哀原」)
に比べても,外から眺めている感覚が大きい。それを距離の取り方の違いと取るか,現実感覚からの隔たりと取るか,今のところ答はない。しかし,この距離の取り方も,僕は悪くない気がする。粘りより,淡々とした気味が,一つのリズムになっているように思えるのだ。
参考文献;
古井由吉『雨の裾』(講談社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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