2015年08月08日

イリュージョン


前野隆司『錯覚する脳』を読む。

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同じ著者の『脳はなぜ「心」を作ったのか』と一緒に買ったのたが,前後逆に読み始めてしまった。『脳はなぜ「心」を作ったのか』については,別途触れるとして,本書である。

サブタイトルに,「『おいしい』も『痛い』も幻想だった」とあるので,おおよそ,著者の主張は予想できる。心身二元論でも,心一元論でもなく,心も,知覚も,表象も,

「すべてはイリュージョンである。」

が,「お伝えしたいこと」である,と冒頭で言いきっている。つまり,

脳も肉体である,

ということである。著者は,本書で,その脳の作り出す意識とは,

「あたかも心というものがリアルに存在するかのように脳が私たちに思わせている」

が,しかし,「意識は幻想のようなもの」ではなく,

錯覚,

だという。つまり,「知覚が客観的性質と一致しない」のである。で,著者は,

「意識はイリュージョンのようなものだ」

という。本書は,それを述べるためのものだ,とも言う。意識には,

覚醒しているという意味,

~について向ける意識,

という意味のそれとがある。後者には,脳の機能に着目する機能的意識(これは定量的に表せるようになるはずである)のほかに,

現象的意識,

と言われるものがある。何かを見ている時の質感や,何かを意識したときの感覚のような,いわゆる,

クオリア,

と呼ばれるものがこれである。イリュージョンと著者がいうのは,このクオリアを指している。

で,心身二元論の立場の,チャ―マーズ『意識する心』をだしに,それに対比しつつ徹底して,脳一元論(心身一元論)を展開していく。著者の立場は,

「心身一元論に立脚し,脳のニューラルネットワークによって,意識の現象的な側面が(あくまでイリュージョンとして)作られている…」

と考えるところにいる。

ペンフィールドの描いた,脳の,運動・感覚中枢の位置に,それが司る身体部位を対応させた図,

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/Homunculus-ja.png

があるが,しかし(触覚が専門の)著者は言う,

「痛みを感じるのは皮膚の表面だ。皮膚の表面は,角質層という,死んだ皮膚で覆われている。つまり,新しい皮膚は,真皮と表皮の境目で作られ,約一ヵ月かけてだんだん上昇し,表面に角質層として堆積するころには既に死んでいる。角質層は,皮膚を保護する層であり,表面の摩擦によって垢となり剥がれ落ちる運命にある。
そして,痛覚受容器は,角質層のある皮膚の表面ではなく,皮膚内部に配置されている。真皮と表皮の境目あたりか,あるいはもっと深いところにある。それなのに,痛みを感じるのは皮膚の表面なのだ。」

手がないのに手が痛いと感じる,(僕も昔読んだが)V・S・ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』の幻肢の例が,本書でも挙げられているが,それと同じではないか,と著者は言う。記憶で書くが,鏡で脳に,失った手があるように錯覚させると,痛みが消えた,とあったように思う。そのことと,子供が,母親に,

「痛いの痛いの飛んでけ」

と言われて,痛い部分をさすったりしてもらっただけで,痛みが和らぐ(さするだけで痛みの数十%が和らぐと言われている)のとは関係があるのかもしれない。もっと面白いのは,

触角の把持力の制御,

である。重さのわからないコップや,肩さのわからない豆腐を,ちょうどいい力で持つように,把持する力を調節する機能だが,人間は,

「必要最小限の把持力の1.2倍から1.4倍という,ちょうど強すぎず弱すぎない力を加えてものを持つ事ができる。」

のだが,実は,それは意識に上らない,サブリミナル(閾下)で行われている。

「つまり,把持力を制御する際に,人は,指の表面と物体との間にどのくらいの局所的な滑りが生じているのかを意識できない。意識できないにもかかわらず,明らかに把持力制御のために使われているという点がおもしろい。」

と。そして,そのことは,例の意志の問題と絡んでくる。リベットの実験である。

「人が指を動かそうとするとき,『動かそう』と意図する自由意志と,筋肉を動かそうと指令する脳のニューロンの運動準備電位が,どんなタイミングで活動するかを計測した」

実験である。結果は,

「筋肉を動かすための運動準備電位は,意識下の自由意志が『動かそう』と意図する瞬間よりも0.35秒も先だ」

というものだ。そして,著者は,こう言う。

「すべての認知はそうなのだ。見た瞬間にリンゴだとわかるはずがないのと同様に,聴いた瞬間に恋人の声だとわかるはずはない。読んだり聴いた瞬間に,言葉の意味がわかるはずはない。触った瞬間に,熱いと感じるはずはないし,ものの形がわかるはずがない。(中略)ニューラルネットワークによる『知』の情報処理にかかる時間分だけ,本来は遅れるはずなのだ。それを,脳が補正して,タイミングを合わせてくれているとしか考えられない。」

たとえば,

「視覚情報処理にかかる時間はざっと0.2秒から0.5秒だといわれる。刺激が複雑になると,その意味を意識するまでの時間は長くなる。」

しかしそんなタイムラグはあまりない。

「私達は本当は遅れて意識しているのに,時間をさかのぼって意識したかのように感じるようにできているのだ。」

と。その意味では,

脳は,自分が知っている以上を知っている,

と,ミルトン・エリクソンなどが言うことは,ある意味当たっている。

「意識は,たまたま子びとたち(ホムンクルスのこと)の決めた結果を感じているにすぎない」

と,著者は揶揄交じりに言う。

「でも,どちらも自分なのだから,いいじゃないか」

と。確かに。そう考えれば,心安らかではある。

参考文献;
前野隆司『錯覚する脳』(ちくま文庫)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:14| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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