2015年08月09日

ニューラルネットワーク


前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』を読む。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/423785709.html?1438978501

で紹介した前野隆司『錯覚する脳』は,これに続くものである。

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著者は,冒頭でこう言い切る。

「ある日,『心』と『からだ』の成り立ち方はだいたいおなじではないか,と考えているときに,急に心の謎を解く手がかりがひらめいた。私は,生物の脳が,なぜ,なんのために心を作ったのか,そして心はどんなふうに運営されているのか,という心の原理を理解したつもりだ。」

と。そして,

「心が実に単純なメカニズムでできていて,作ることすら簡単であることを,誰にもわかる形で明示できる。これまで心の謎だと言われていた事柄にもほぼ堪えられる。だから,近い将来,心を盛ったロボットを簡単に作れるようになるだろう。」

とも。それが,サブタイトルの,「『私』の謎を解く受動意識仮説」である。著者は,「意識」の主要な謎,

〈私〉の不思議
バインディング問題
クオリア問題

を順次,著者流に解き明かしていく。その際,著者は,「自分」「私」〈私〉を,

「自分」とは,自分のからだと脳を含めた,個体としての,あるいはハードウェアとしての自分,
「私」とは,前野隆司(それぞれ一人一人)の「意識」のことだ。前野隆司の現象的な意識を指す。
〈私〉とは,ものやことに注意を向ける働き(awareness)を除いた自己意識について感じる部分,

と,区別する。

「〈私〉とは,自己意識の感覚―生まれてからこれまで,そして死ぬまで,自らが生き生きと自分の意識のことを振り返って,ああ,これが自分の意識だ,と実感し続けることのできる,個人的な主体そのもの―のことだ。」

これを,

自己意識のクオリア,

と呼ぶが,それは,

錯覚にすぎない,

といい,「心を盛ったロボットは簡単に作れる」とまで言うのである。触覚を専門とする著者は,たとえば,

「私たちは指先で何かに触ったとき,熱いか冷たいか,つるつるかザラザラかを瞬時に,しかも指先で感じるような気がする。しかし指先にはマイスナー小体やメルケル小体といった触角のセンサがあるだけでせ,脳はない。だから,当然,熱いか冷たいかとかつるつるかざらざらかといった情報を皮膚は計算することは決してできない。なのに,どうして触角のクオリアを指先でかんじるのだろうか。」

それは,脳で計算されたあとに,「あたかも感覚器のある場所で感じたかのように見せてくれている」ということになる。例のリベットの,何かを取ろうとする動作を,

意図したよりも350ミリ秒(0.35秒)早く,無意識下の運動準備電位が生じ,実際に指が動いたのは意図した200ミリ秒(0.2秒)後であった,

という実験が示しているのは,

「人が『意識』下でなにか行動を『意図』するとき,それはすべてのはじまりではない。『私』が『意識』するよりも少し前に,小びとたちは既に活動を開始しているのだ。」

ここで小びとと著者が準えているのは,

何らかの機能をこなすニューラルネットワーク(脳の神経回路網)のモジュールの比喩,

である。言い方は変だが,何かを意図したのは,そう意図するように脳が働きかけているからだ,ということになるる。たとえば,脳はこういうこともする。

「感覚受容器から大脳新皮質の感覚野まで信号が伝達するのに要する時間は,感覚ごとにに違う。目の網膜で光を受け取ってから,その信号が脳の第一次視覚野に到着するには0.05秒かかるのに対して,鼓膜から第一次聴覚野までは0.02秒しかかからない。なのに,光と音が同時に目と耳に到着したとき,人は,同時か,または,むしろ光の方が早いように感じる。これは,信号の届いた時刻を,脳が都合のいいようにずらしている結果だ。」

たとえば,

「大脳皮質を刺激したときには,指に刺激を与えたときよりも,『意識』されるタイミングが0.5秒もおくれるのだ。これも奇妙な結果だ。体性感覚が活動し始めてから,脳の『意識』をつかさどる部分が触感覚を『意識』するまでに0.5秒もかかるのだとしたら,実際に指が何かにさわった時に瞬時に触感覚を『意識』できることを説明できない。」

として,著者は,

「『意識』するタイミングは,錯覚」

だと考える。

「いまというタイミングが,実は今だと思っている瞬間よりも,本当は少し遅いのに,それが(脳に)ごまかされている…。」

ということになる。で,

「小びとたち(無意識)は『私』(意識)にしたがっているのか,それとも,『私』(意識)は小びとたち(無意識)にしたがっているのか」

を,著者は,

心の天動説(「私」中心の世界観)

心の地動説(「私」は受動的)

と呼ぶ。もちろん,「受動意識仮説」の由来は,ここにある。

「つまり,『私』や〈私〉は世界の端っこにいて,無意識の小びとたちの『知情意』の結果を受け取るだけの脇役」

なのだ,ということだ。たしか,エリクソンは,放れ馬を例に,馬が帰り道を知っていると,無意識に喩えた。その意味ともつながる気がする。

著者は,心を昆虫の反射行動に準えて,「それと大差ない」という。進化の流れから考えたとき,

「進化というのは,真っ白な設計図にゼロから新しい生物のデザインをするような,華麗で創造的なものではない。」

のであり,それは体だけではなく,脳の神経系もそのはずではないか,という著者の指摘に,僕は賛成である。

「もともと下等な生物がもっていたニューラルネットワークを,…新しい情報処理ができるように設計変更しているのだ。このように考えると,受動的な『意識』という考え方は,実は下等な生物のやり方と似ていて,理にかなっている。
 能動的な『意識』が存在すると考えようとすると,『意識』をもたない動物から『意識』をもつ動物への進化は,あまりにも不連続に思える。」

で,自説をこう説明する。

「私が述べてきた『無意識』の小びとたちとは,実は,昆虫の反射行動と同じように,…複雑なフィードバック結合が巧みに組み合わされていることに他ならない。」

それは,

「自動的な『私』は,前肢が羽になり手になったように,既存の神経系の構造を少し設計変更することによってつくりだされたということだ。進化の理にかなっている。」

と。そして,

「昆虫の反射の拡張として,小びとたちや『私』や〈私〉をつかさどるたくさんのニューラルネットワークに接続すれば,心全体を作ることができる。」

との著者の発言に期待したい。

参考文献;
前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(ちくま文庫)








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:20| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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