2015年08月12日
恥
恥
というのと,
恥ずかしい,
とか
恥じらう,
というのとは,もちろん,和語か中国語かの語感の差もあるが,随分印象が違う。しかも「はじ」と読ませて,
羞(恥じて眩く,顔の合わせがたきなり),
恥(心に恥ずかしく思う),
愧(おのれの見苦しきを人に対して恥ずる。醜の字の気味がある),
辱(はずかしめ,栄の反対。外聞悪しきを言う),
慙(はづると訓むが,はぢとは訓まない。慙愧と用いる。愧と同じ),
忸(忸・怩ともに恥ずる貌),
等々とある(括弧内は『字源』による意味の違い)。しかし,「恥」の字と,
はじる,
と表記するのでも,随分印象が変わる。
「恥」は,「心+耳」で,心が柔らかくいじけること,という意味らしい。ただ,『漢和辞典』では,「羞」と比較して,
「羞し,恥じて心が縮まること,『慙愧』と熟してもちいる。辱も柔らかい意を含み,恥じて気後れすること。忸は,心がいじけてきっぱりとしないこと。慙は,心にじわじわと切り込まれた感じ。」
と説明があった。「恥づ」は,語源的には,
「端+づ」
で,中央から外れている,末端にいる劣等感,を意味する。『古語辞典』にも,
自分の能力・状態・行為などについて世間並みでないという劣等意識を持つ意,
と注記がある。だから,
(自分の至らなさ,みっともなさを思って)気が引ける,
となるし,逆に,
(相手を眩しく感じて)気後れする,
結果として,
照れくさい,
という意味になる,ようである。それにしても,「恥ずかしい」と「はにか(含羞)む」とでは,随分ニュアンスが違う。
「はにかむ」は,
「歯+に+噛む」
で,遠慮がちに恥ずかしがる様子が,歯に物をかむようなので,はにかむというらしい。しかし,恥ずかしがり方よりは,何を恥ずかしがるか,が問題のようだ。
「行己有恥」(己を行うて恥あり)
とある。
「子貢問うて曰く『如何なるこれこれを士と言うべき』子曰く、『己を行うて恥あり。四方に使いして君命を辱めざる、士と言うべし』」
にある。ここで言う恥は,
「端+づ」
の恥ではないのではないか。『大言海』に,「はぢ(恥・辱)」として,
恥ずこと,面目を失うこと,恥辱,
恥を恥とすること,名を重んずること,廉恥心,
とある。この説明が一番僕にはピンとくる。廉恥とは,「廉とは,清潔の義」で,潔くして,恥の感情の強いこと,とある。あるいは,「恥じを知ること」とも。
ここにあるのは,自己倫理なのではないか。世間体というのも,もちろん一つの基準であるし,世の中の基準というのもあるが,ここでは,自分の生き方としての確信なのではないか,それを自恃といってもいいし,自負といってもいい。しかし,それは,自惚れや奢りではない。
子曰く,由よ,汝に知ることを誨(おし)えんか,知れるを知れるとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり。
それは,知ったかぶりとは無縁のことだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%9E%E6%81%A5%E5%BF%83
によると,「恥ずかしい」と思うとき,
自己の存在が取るに足らない物と感じ、自己を否定したいと思う「全体的自己非難」
恥を感じる状況から逃げたい、もしくは恥を感じた記憶を消したいと思う「回避・隠蔽反応」
自分が周囲から孤立したと感じる「孤立感」
人に見られている、人に笑われていると思う「被笑感」
とあるが,恥の本質は,どうもこのどれとも当てはまらない気がする。おのれの人としてのありよう,あるいは,大袈裟に言うと,
人としてある使命,
のようなものに照らすのではないか。それは,よそにある尺度ではなく,自身の中にある尺度,倫理である。自己倫理とは,
(おのれ自身の内的な声として)いかに生くべきか,
というコアの自分への戒め,である。
だから,無恥は無知に通じ,無知は無恥に通じる。そのことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/419536179.html
で触れた。
参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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