分
「ぶん」の意の分である。
分を弁える,
の意味で使う。意味は,
各人にわけ与えられたもの。性質・身分・責任など,
の意味で,分限・分際,応分・過分・士分・自分・性分・職分・随分・天分・本分・身分・名分等々という使われ方をする。
前にも書いた気がするが,「分」の字は,
「八印(左右にわける)+刀」
で,二つに切り分ける意を示す。ここでの意味で言えば,
ポストにおうじた責任と能力
の意だが,「区別」「けじめ」の意味も含む。「身の程」「分際」という言葉と重なるのかもしれない。それはある意味,
「持前」とも重なる。
分を守る,
とか
分を弁える,
という言葉が身に染みる。あるいみ,「慎み」とは,そういうことなのではないか。
慎むこと。控えめに振る舞うこと。
江戸時代,武士や僧侶に科した刑罰の一つ。家の内に籠居 (屏居)して外出することを許さないもの。謹慎。
物忌み。斎戒 (さいかい) 。
といった意味があるが,上にか天にか神にか,分を超えたことへの戒めととらえることができる。
「身」という字は,
「女性が腹に赤子を身ごもったさまをえがいたもの。充実する,一杯詰まる,の意を含む」
とある。「身の程」は,身分がらとか地位の程度を指すようだが,
天の分,
を指すのではあるまいか。つまり,
天から分け与えられた,性質・才能,
の意味のそれではなく,
天から与えられた分限,職分,
の意である。
死生命有
富貴天に在り(『論語』)
の意である。
潔さとは,
身のほどを弁える
とか
分を弁える
ところからしか生じないと,僕は思っている。潔いとは,
思い切りがよい。未練がましくない。また、さっぱりとしていて小気味がよい。
等々といった意味だが,単に気風のことを言っているのではあるまい。「潔し」は,
「イサ(勇・イサムの語幹,積極性ある意)+清い」
で,潔白ですがすがしい,意味とされるが,古くは,「清」「明」「潔」をイサギヨシと訓ませていた,とある。その意味では,
積極的で清浄なという男性的感覚,
として,本来は(自然の風景が澄んでいるという意味の),
綺麗に澄んでいる,清浄である,
という意味だったのかもしれない。それから派生して,
気分がすがすがしい,さわやかだ,
と,主体側の気分を表現する意に転じたというのは,わかりやすい。そこから,
思い切りがよい,さっぱりしている,淡々としている,
に転じるには,人の在りようなり振る舞いを指して言うようになった,と考えられるが,そこは,風景にすがすがしさを感じるのに準えて,人の振る舞いを指し,さらには,それを評するこちらの気分に転じた,とたどれなくもない。
「潔」という字の,「絜」は,ぐっとひきしめるという意で,それに水を加えて,
清い(清廉潔白),
きよめる,きっぱりとけじめをつける,
といった意味で,「潔い」という字を当てたところから,漢字の意味に引きずられたのではないか,と勘繰りたくなる。
「けじめ」という言葉は,
「ケ(段・分段)+チ(つ・の)+目」
で,分け目,区別の意味で,そこから準えて,
道徳や規範によって行動・態度に示す区別。節度ある態度。
という意味に敷衍されている。分,身の程と近いが,差異というか切れ目に着眼しているので,目線が外からの色合いが強い。分,身の程は,内からの自分での弁え,ということになる。
潔さとは,分を守ることの徹底に見る。僕は,松陰の『講孟余話』よりも,それ(みだりに異国に華夷の弁を立てるの)をたしなめる山県太華に,身の程を見る。腐儒などと言われるものの方が,(小楠も含め)まっとうである。いま,憲法学者を罵るものに,(文を弁えぬ)無恥の暴虎馮河を垣間見る。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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