2015年08月18日

世界観


中村桂子『科学者が人間であること』を読む。

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本書が描かれたのが,2013年。わずか二年で,日本国内のの風向きがガラリと変わってしまったことがよくわかる。その意味で,「おわりに」で,

「筆を進めながら常に思っていたのは,あたりまえのことばかり書いているということでした。特段新しいことはありません。けれどもあの大きな災害から二年半を経過した今,科学者が変ったようには見えません。震災直後は,原発事故のこともあり,科学者・技術者の中にある種の緊張が生まれ,変ろうという意識が見られたのですが,今や元通り,いやいぜんより先鋭化し,日常や思想などどこ見吹く風という雰囲気になっています。
 それどころか今,『経済成長が重要でありそれを支ええる科学技術を振興する』という亡霊のような言葉が飛び交っています。ここには人間はいません。経済成長とは具体的にどのようなことで,誰の暮らしがどのように豊かに豊かになるのか,幸せになるのかという問いも答もありません。したがって科学技術についても,イノベーションという言葉だけしかないところに大きな予算をつけることが『振興』とされ,その研究や技術開発によって人々の日常がどのようになるかということは考えられていません。私達って人間なんですというあたりまえのことに眼を向けない専門家によって動かされていく社会がまた始まっているとしたら,やはり『科学者が人間であること』という,あたりまえすぎることを言わなければならないと思います。」

と書く言葉が,見事に今日への予言になっている。フクイチはまだ汚染を垂れ流し続け,到底コントロール不可能と見せつけているのに,早くも,原発の再稼働が,科学者のお墨付きではじめられている。そのことに対する,(真の)科学者自身からの,日本の科学あるいは科学者はどうあるべきか,の提言の書である。しかし,著者自身の予言した通り,元の木阿弥,たぶん,また同じ轍を踏むであろうことも,予想される。

本書は,

「50年近く,生命科学の研究に関与しながら,常に本当にこれでよいのだろうかと考え続けてきました。『人間は生き物である。自然の中にある』ということを,最新の生命科学研究の知識を踏まえて,『生命誌(バイオヒストリー,Biohistory)』という新しい知として提案し,近代を問い直して」

きた,著者の,震災を経験しての,(大森荘蔵,南方熊楠等々を参照しつつ)科学者としての在り方を問い直した本,となっている。その考え方は,

「西欧で生まれた科学そのものを否定するのではない方法で,科学という呪縛から解かれることが必要」

とするもので,たとえば,ゲノムを例にして,こう書いている。

「(ゲノムは)一つの細胞の中にあるDNA全体をさします。その性質を一言で表現するなら関係性でしょう。遺伝子と遺伝子,細胞間,さらにはある生物と他の生物との『関係性』『ネットワーク』を内に持つものと捉えることができます。そこで,地球上の全生物の基本物質であるDNAを個々の遺伝子とのみ捉え,個別に分析を進めていくだけでなく,一つの細胞の中にあるDNAのすべてをゲノムとして捉え『全体』を見ようと考えました。さらには生きものを38億年という長い歴史の産物と考える視点から生きものの本質を見るという知を進めることで,世界観の転換につなげたいと思ってきました。」

それは原発に関わった専門家の「狭い視野の価値観で動いていること」への批判となっている(またぞろ,懲りもせず復活してきているが)。著者は,そこに,

「自らもまた社会の中に生きる一人の『生活者』であるという感覚を失い,閉じられた集団の価値観だけを指針に行動している」

のを見る。それは過去のことではなく,今現在も,またぞろ大手を振って闊歩している。それは原発だけではない。たとえば,ヒトゲノム開発をめぐっても,

「日本の大型プロジェクトは…『ゲノムの解析が終わったのだから次はタンパク質でしょう』という単純な発想で,しかも3000億円のたんぱく質の構造をきめるという,量で勝負をするプロジェクトを巨額の資金を投入して始めました。ここには,ゲノム解析に到る研究の歴史や生命現象を考える姿勢,医療という応用へ向けての研究戦略などがまったくありません。これは,基礎研究としても,社会に役立つための研究として評価のできない進め方です。」

と,同様に,「狭い視野の価値観で動いている」,そう言い方は妥当ではないが,まるで金鉱を探す山師そのもののような専門家集団である,と僕には見える。著者は,アニメの『鉄腕アトム』の主題歌,

空を超えて ラララ 星の彼方
ゆくぞ アトム ジェットのかぎり
心やさしい ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム

と,『きかんしゃトーマス』の主題歌,

じこがほら おきるよ
いいきになっていると
そうさ,よそみしているそのときに
じこしは おきるものさ

を対比しながら,科学に対する(日本と欧米の)見方の差を例示しつつ(「安全神話」自体があり得ない),

「専門家への信頼がなくなっている理由は,現在の科学そして科学者のありようそのものが間違ってからなのです。」

と,言い切る。そして,その突破口を,大森の,

「日常描写と科学描写の重ね描き」 

に見出す。大森は,その意図を,

「私が富士山を見ながら立っている。それは乃ち,光波が私の眼に達し,わたしの脳細胞が興奮しているそのことに他ならないのである。物理学者や化学者はもとより,生理学者もまた,彼らの実験室の中での実際の研究ではこの『すなわち』の『重ね描き』にしたがっているのである。」

と説く。それは,

「科学をする者は科学と日常と思想とを自らの中に取り入れていなければならない」という,著者の思いと重なった瞬間である。それを,

機械論的世界観から抜け出す手がかり,

とし,それを,

「略画的世界観」(自分の眼で見,感じているときの世界像)と「密画的世界観」(近代科学の分解していく世界像)

の「重ね描き」という。それは,

「『科学的』だからといって,密画のほうが略画より『上』なわけでも,密画さえ描ければ自然の真の姿が描けるわけでもないということです。密画を描こうとする時に,略画的世界観を忘れないことが大事なのです。」

という。これは,著者の言う「あたりまえ」のことなのかもしれない。しかし,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163312.html

で触れたように,

サムシング・グレート

という,西欧の科学者には,信仰心と両立させるマインドがある,それを別の言い方で言っているように見える。それ抜きなら,試験管で子供すら創り出すことを,心に何のこだわりもなく,やってのけてしまう。それは,

すべてがわかるわけではない,

という謙虚さに通じる。熊楠は,

「科学哲学は仏意を賛するものとでも見て」

と,自分流に表現している。著者は,大腸菌の遺伝子4100個から,「重要な代謝経路の遺伝子」を欠いても大腸菌は生き延びる,という例を挙げて,

「生きものはその場その場に応じて適当に対処するのです。生物医学では,このような性質をもつものを全体像はまだわからないままに技術に用いるわけですから,『わかっていない』ということを忘れずにいることが大事です。」

と,述懐する。しかし,我が国では,隅々まで,科学神話に陥る余地がある。「きかんしゃトーマス」と「鉄腕アトム」の差は,意外と大きいのかもしれない,と思い知らされるのである。しかし,国立大から,文系を消そうという方向の行き着く先は,金になり,役に立つなら,人体実験でも,戦争でもなんでもする,といういつか来た道に通じるような気がしてならない。

参考文献;
中村桂子『科学者が人間であること』 (岩波新書)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:10| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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