どこか遠くへ


昔,

いまでない,いつか,
ここでない,どこか,
これではない,何か,

という思いを,

どこか遠くへ,
地図にない世界へ,
でも,地図にない世界の地図がない,

と,自己撞着したフレーズで(おのれの憧憬)揶揄した記憶がある。もう遠い昔のことだ。人は知らず,

いつも,もっといいものがある,という思いで,いた。

もっと知りたいことがある,
もっと面白いことがある,
もっと知らない世界がある,
もっと知りあいたい人がいる,

と,それは,

いまではない,いつか,
ここではない,どこか,

という渇望に似たものだ。それは,若いということと同義かもしれない。

いま

ここ

に固執するものを嘲っていた。そこに固執する限り,

いまの,ここでのおのれ以上にはいかない,

と。そうやって,自分の向こうに広がる世界を自分のものにしようと,まあ,

蟷螂の斧,

かもしれない。そうやって,野心というか志というか,広がる未知を既知に変えて,おのれの求める物を少しずつ広げていく(つもり),まあ,それが成長ということかもしれない。

振り返れば,実現できたこともあるし,実現しそこなったこともある。

しかし,いまの時代なら,

足るを知れ,
とか,
おのれの中に未知の世界がある,
とか,
おのれを受け容れよ,

とか言うのであろうか。

たとえ,おのれの無知蒙昧を思い知らされることになったとしても,縮こまり,いまの,ここの,自分に留まろうという気はなかった気がする。そういう時代状況だったせいかもしれない。若者は,

もっと猛々しく,
もっと青臭く,
もっと革命的,

であった,ような気がする(老耄のたわごとだが)。しかし,振り向くと,

どうしてもできなかったこと,
しそこなったこと,
しようとして不十分にしかできなかったこと,

に目が向きがちだ。しかし,

しようと思ったこと,
したいと思ったこと,

は,全部とは言わないが(告白しなかった片思いのように,苦く呑みこんだ思いもあるが),

それなりに齧ったり,試みたり,挑んだりして,みた。そのとき必ずぶつかったのが,

才能,

という奴だ。才能については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/417632824.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/411497998.html

等々で,既に何度か書いた。

基本怠け者だから,口で言うほど努力もしてないし,野心的であったわけでもないが,

いま・ここのおのれ,

ではない,

いつか・どこかのおのれ,

に向かって(それを目標と呼ぼうと,ビジョンと呼ぼうと,野心と呼ぼうと,志と呼ぼうとかまわないが),おのれの円を拡大してきた,その涯に,いまいる。

「人生とは,なにかを計画している時に起こってしまう別の出来事のことをいう。結果が最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味をもつのは,結果ではなく,過ごしてしまったかけがえのないその時間である。」(龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』)

かどうかはわからないが,振り返れば,

無数の分岐点(選択肢)

を,意識的・無意識的に,選びとってきた結果でしかないことは,よく分かる。そして,それは,必然であった,と。いまの自分を否定するなら,別だが,そうでなければ,その必然的な選択の積み重ねの中に,

いま・ここ

がある。多分,最後の選択肢は,「死」なのではないか。思えば,村上一郎(『草莽論』は愛読書だ)は,自死であった。死をも,自分の選択の手に委ねたい,という意志への魅力があるのかもしれない。

まあ,僕のような成り行き任せのよくできる業ではないが,

またね,

という別れの言葉には,「さようなら」とは別のニュアンスがある。さようならについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/402221188.html

で触れたが,「またね」には,再会が明確なときは,

また,明日,

となる。しかし,それがはっきりしないときには,

いつか,どこかで,

という含意があるように思えてならない。さようなら,よりは,

またね,

という言葉が,死に望んではふさわしい気がする。いつか,どこか,には,神秘のにほひがする。









今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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