東大話法
東京2020大会組織委員会事務総長武藤敏郎氏は,エンブレム中止の記者発表で,
ここまで引きずってしまった責任問題,
に対して,まとめると,
「リエージュとは似てないという確信があったので今の今まで取り下げませんでしたが、一般国民からの理解を得られなかったため(騒いだために)取り下げることに決めました。(意訳)
これを選んだのは審査委員会で組織委員会はそれを活用するだけです。しかし、選んだものが素晴らしかったから選ばれたと思っています。」
と答えたように聞こえる。では,誰の責任で,これを中止と決めたのか,それを決めたのは,権限があるからではないのか等々と茶々を入れたくなる。典型的な官僚答弁である。それもそのはず,武藤敏郎氏は,
元財務事務次官,
元日本銀行副総裁,
なのである。
http://francepresent.com/olympic-10/
では,要約すると
組織委員会はロゴが模倣のものだとは認めていない
しかし国民が騒いだためにエンブレムを取り下げることに決めた
スポンサーには丁寧な個別対応をしていく予定である
ネット画像の流用は閉じた場ではよくあること
画像検索は危険
審査委員会が選んだことだから組織委員会は活用するだけ
一般国民には理解できない
という会見内容だったことになる,としている。その詳細は,
http://gogotsu.com/archives/11019
にある。
ところで,東大話法というのがあるらしい。
http://4knn.tv/todai-speach/
によると,東大話法規則一覧というのがあって,
自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
羊頭狗肉。
わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
全体のバランスを常に考えて発言せよ。
「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。
等々という20項目が挙がっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E8%A9%B1%E6%B3%95
によると,
「東大話法(とうだいわほう)とは東京大学(東大)の学生・教員・卒業生たちが往々にして使うとされる「欺瞞的で傍観者的」な話法のこと。東大教授の安冨歩が著書『原発危機と「東大話法」』(2012年1月出版)で提唱した。」
という,れっきとした(?)詐欺話法といっていい。同書に,上記の20項目が挙げられているらしい。しかし,これは,例の官僚答弁でもある。
この是非はともかく,主体として,自分の意志と責任でものを言うという姿勢とは全くかけ離れていることは間違いない。僕は,
言いたいことを伝えるための原則,
というのがあると思っていて,
第一は,自分が何を言おうとしているかが明確・明晰であること,
第二は,自分が発言主体であること,
第三は,相手にどう伝わったかのフィードバックを得ること,
だと思っている。その意味では,言おうとしていることは明確でなく,主体がなく,何が伝わったかなどは眼中にない,という典型である。それで思い出すのは,
安倍談話,
である。これについては,既にいろいろ言われているので,
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/90d7175dbddae46b62efcc23fb4fe767
http://digital.asahi.com/articles/ASH8F4TVRH8FUTFK008.html
http://mainichi.jp/feature/news/20150814mog00m010012000c.html
http://www.asahi.com/articles/ASH8G5X1TH8GTIPE022.html
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/258098
屋上屋かもしれないが,改めて,
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html
全文を読むと,
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」
から始まっていることが印象的である。そして,
「世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして七十年前。日本は、敗戦しました。」
と,こう見ると,「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進」めたせいだと言っているのである。いや,そのために,戦争せざるを得なかったのだ,と。だから,末尾にまた出てくる。
「私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。」
そして,こう締めくくる。
「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。」
積極的平和主義の名のもとに個別自衛権ではなく,集団的自衛権へと,もっと言えば,自国防衛ではなく,他国(ほとんどアメリカを指す)との共同防衛のために,他国(アメリカと同義)の始めた戦争に連れションしようとする,言葉とやろうとしていることのギャップが大きすぎる。つまり,平和,民主主義という言葉で言っていることと,やっていることの乖離,矛盾が大きい。そして,そのことに,言っている主体が無自覚(あるいは見ないようにしている)らしいのである。村山談話は,
「敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。」
と締めくくる。その言葉がやろうとすることとつながる。もし,言葉レベルとやろうとしていること,やっていることとのギャップが大きい場合,言葉ではなく,やっていることに眼を向けるべきだろう。
それに比べて,自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs) 戦後70年宣言文
http://site231363-4631-285.strikingly.com/
はシンプルである。
「私たちは、戦後70年という節目にあたって、平和の尊さをあらためて強く胸に刻みます。私たちは、戦争の記憶と多くの犠牲のうえにあるこの国に生きるものとして、武力による問題解決に反対します。核の恐ろしさを目の当たりにした被爆国に生きるものとして、核兵器の廃絶を求めます。私たちは『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し』、ナショナリズムにとらわれず、世界中の仲間たちと協力し、『全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを』目指します。
私たちは、自分の頭で思考し、判断し、行動していきます。それを不断に続けていきます。偏見や差別を許さず、思想・信条・宗教・文化・人種・民族・国籍・性別や性的指向性・世代・障害の有無などの様々な違いを超えて、他者を尊重し、共に手をとりあって生きる道を切り開いていきます。」
自分の頭で考えている文章は,言行一致する。戦後70年談話(安倍談話)に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」で座長代理を務めた北岡伸一・国際大学長は,
「私の希望としては『日本は確かに侵略した。こういうことを繰り返してはいけない』と、一人称でできれば言ってほしかった」
と感想を述べた,という。宜なるかな,である。
ふと思い出すのは,平田オリザ氏が,
http://www.politas.jp/features/8/article/446
で書いていた,
三つの寂しさと向き合う,
という一文である。
「私たちはおそらく、いま、先を急ぐのではなく、ここに踏みとどまって、三つの種類の寂しさを、がっきと受け止め、受け入れなければならないのだと私は思っています。
一つは、日本は、もはや工業立国ではないということ。
もう一つは、もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ。
そして最後の一つは、日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではないということ。」
確か,中国の高官が,日本は,今の中国のありよう(世界第二の経済大国を含めた中国のポジション)を認めたがらないのだ,と。実に正鵠を射ている。安倍談話が,明治維新から説き起こしたのには,意味がある。そこまで立ち返らなければ,日本のアイデンティティが揺らぐのであろう。しかし,
過去の見え方は現在の自分の在りよう(をどう見ているか)を反映している,
今の日本の現実にきちんと向き合わなければ,過去はきちんと見えず,未来も,現実のいまの先に描けず,
戦後レジームからの脱却,
などという,戦前回帰を妄想することになる。いま,日本は,人口だけでなく,国力,民力,知力すべてで,
縮みつつある,
のである。たとえば,
https://data.oecd.org/chart/4lK1
日本の賃金水準は,韓国に抜かれた(OECD Chart: Average wages, Total, US dollars , Annual, 1990 -2013)。この現実をきちんと見つめなくては,未来は,砂上の楼閣である。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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