分人
平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』を読む。
私事ながら,昔から,
本当の自分,
とか
自分らしく,
とか
ありのままの自分,
という言葉が大嫌いであった。それは,いまある自分への言い訳でしかない。いま,ここにいる自分以外には,自分はいない,その自分が,
ありのままの自分,
であり,
本当の自分,
であり,
自分らしさ,
そのものだと思ってきた。その自分から逃げられないのである。逃げないことが,自分の人生だからである。何度か自殺しそうになり,その都度思いとどまってきたのは,
自分以外自分の人生を生きていくものはいない,
からだ。著者は,
「個人から分人へ」
と題し,こう「まえがき」で書く,
「全ての間違いの元は,唯一無二の『本当の自分』という神話である。
そこでこう考えてみよう。たったひとつの『本当の自分など存在しない。裏返して言うならば,対人関係ごとに見せる複数の顔が,すべて『本当の自分』である。』
で,「個人(individual)」ではなく,inを取った「分人(dividual)」という言葉を,著者は導入する。
「分人とは,対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人,両親との分人,職場での分人,趣味仲間との分人,…それらは,必ずしも同じではない。
分人は,相手との反復的なコミュニケーションを通じて,自分の中に形成されてゆく,パターンとしての人格である。」
つまり,
「一人の人間は『わけられないindividual』な存在ではなく,複数に『わけられるdividual』存在である。」
というわけである。で,
「個人を整数の1とするなら,分人は,分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。私という人間は,対人関係毎のいくつかの分人によって構成されている。そして,その人らしさ(個性)というものは,その複数の分人の構成比率によってけっていされる。」
人は,社会的存在である。確か,僕の記憶に間違いがなければ,人の存在は,人と人との関係の,
ノッド(結び目knot),
である。その意味でネットワークの結節点なのである。
「私という存在は,ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより,他者との相互作用の中にしかない。」
その意味では,その人がつながる人との側面,
「分人はすべて,『本当の自分』である。」
ということになる。だから,逆に言えば
「本当の自分は,ひとつではない。」
ということになる。その人の個性というのは,
「誰とどうつきあっているかで,あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体があなたの個性となる。」
という意味では,
「分人のネットワークには,中心が存在しない。なぜか?分人は,自分で勝手に生み出す人格ではなく,常に,環境や対人関係の中で形成されるからだ。私たちの生きている世界に,唯一絶対の場所がないように,分人も,一人一人の人間が独自に構成比率で抱えている。」
著者に言わせると,分人には,その対人関係の親疎に合わせて,
「不特定多数の人とコミュニケーション可能な,汎用性の高い分人」(社会的な分人)
「特定のグループ,社会的な分人がより狭いカテゴリーに限定されたもの」(グループ向けの分人)
「特定の相手に向けた分人」
の3レベルがあるが,
「社会的な分人が,特定の人に向けて更に調整されるかどうかは,必ずしも付き合った時間の長さには比例しない」
らしい。この,
多種多様な分人の集合体,
として,われわれは存在していいる,というわけだ。
「誰に対しても,首尾一貫した自分でいようとすると,ひたすら愛想の良い,没個性的な,当たり障りのない時分でいるしかない。まさしく八方美人だ。しかし,対人関係ごとに思いきって分人化できるなら,私たちは,一度の人生で,複数のエッジの利いた自分を生きることができる。」
あるいは,相手の対応しているさまざまな分人の振幅そのものが,
私,
という人間なのである。その意味で,確かに,
「私たちの人格そのものの半分は他者のお蔭なのである。」
だから,
「あなたの存在は,他者の分人を通じて,あなたの死後もこの世界に残り続ける。」
とは,例の,人は二度死ぬ,という意味の,別の側面から見た意味になる。そうして,「私」の死後も,相手の分人の中に「私」は生き続ける。
余談だが,f-MRI(機能的核磁気共鳴画像)で,脳の働きのマッピングが可能となり,一人の人間の中の,慎重な行動の「私」と衝動的な行動の「私」が共存することが,観察され,個人内葛藤と呼ばれている。「分人」が,f-MRIで確かめられる日が来るかもしれない。
参考文献;
平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
この記事へのコメント