視界
視界というのは,
目で見通すことのできる範囲。視野。
という意味で,眼や光学機械の見える範囲,を指す。見える限界,である。そのアナロジーで,
考えや知識の範囲。
という意味に外延が延びる。同義語とされる,視野は,
眼を動かさずに知覚できる周辺視の範囲,
という意味らしく,
外界の一点を凝視するとき、その点を中心として見える範囲。
という意味で,その制約下で,
視力の及ぶ範囲
という意味になる。その意味で,比喩的に,
物事を考えたり判断したりする範囲,
という意味も,視野でいうのに比べると,少し固定点という制約がある。
こまかいところを別にすれば,
眼の利く範囲,
ということになる。記憶で書くが,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/399998550.html
でも触れたが,和辻哲郎は,『鎖国』で,
視圏,
という言葉を使っていた。それは,単なる,
視野拡大,
ではなく,
視圏拡大,
というとき,和辻は,
未知の世界への好奇心,関心,
という意味で使っている。その背景にあるのは,
日本民族が何ゆえに世界的視圏を獲得し得ず,したがって,近世の世界の仲間入りをなしえなかったか,
という和辻の問題意識と軌を一にしている。それは,単に,
視野
だけではない,そのアナロジーとしての,
知力,
をも含意している。その意味で,僕は,視圏を,単なる,
視野の広がり,
だけではなく,その,
視線の射程,
がどこまで届いているか,ということを含意している,と思っている。
因みに,「視」の字は,
みる,
という意味と,
なぞらえる,
という意味があるが,原義は,「真直ぐ見ること」という意味である。「野」の字は,
延び広がった郊外の地,
という意味で,「予」は,□印のものを横に引き伸ばし,伸びる意で,「野」は,
横に伸びた広い田畑,野原,
のことを指す。「界」は,
さかい,
という意味で,「介」が,人が中に割り込んで,両側に分けるという意味で,「界」は,
田畑の中に区切りを入れて両側に分ける境目,
の意味。その意味で,視界は,視野のぎりぎりの限界を指すと言っていい。「圏」は,
おり,
や
かこい,
を意味する。「圏」の「巻」は,
「釆(ばらまく)+両手+人が体を曲げた姿」
の会意文字。手や体を軽く巻くことで,「拳」や「捲」の原字。で,「圏」は,
まるく囲んでで取り巻く,
という意味。視界は,あくまで,
視点から見えている範囲,
つまり,パースペクティブを指すのに対して,視圏は,
その全体圏内,
を指している。その意味では,視点が,メタ・ポジション,というか,俯瞰視点に立つ。この視座(物を見る立ち位置)が取れなかったことを,和辻は,世界史の中に織り込んだ日本史を振り返りつつ,日本の鎖国への道を,「国を鎖(と)ざす行動」と呼んで,なげく。
その意味で『鎖国』のサブタイトルが,「日本の悲劇」となっていることは,象徴的である。いま,70年たって,敗戦の苦しみを忘れたかのように,またぞろ自己完結した自己賛美の中にあることを思うと,和辻の格闘は,結局実を結ばなかった。しかし,マルクスではないが,
一度目は悲劇,二度目は茶番,
である。正確に引用するなら,
「ヘーゲルはどこかでのべている。すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ,と。一度目は悲劇として,二度目は茶番として,と。かれは,つけくわえるのをわすれたのだ。」
と。ここで茶番と言っているのは,言うまでもなく,シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン三世)のことである。それに準えるなら,一度目は,第二次世界大戦,二度目は日本の一人芝居,あるいは,一度目はキシシンスケ,二度目はアベシンゾウ,でもあるかもしれない。
参考文献;
和辻哲郎『鎖国』(岩波文庫)
カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(岩波文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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