2015年09月15日


『西遊記』にお釈迦様の手のひらの逸話がある。詳しくは,

http://www1.ttcn.ne.jp/kozzy/saiyuki/saiyuki03.htm

にあるが,

72変化の術,筋斗雲

と自慢する孫悟空は,お釈迦様と賭けをする。

「私の右の手のひらからあなたが飛び出すことができれば」

望みをかなえる,と。で,

悟空は筋斗雲に飛び乗り、世界の端を目指した。しばらくすると,雲の間に5本の柱が立っていた。その真中の柱に「斉天大聖」と記し,ついでに「オシッコ」までもひっかけていった。

しかし,お釈迦様に,

「私の手のひらを、よくご覧なさい。」

と,言われて見ると,お釈迦の手に中指には「斉天大聖」と書いてあり,中指の根元には先ほど悟空がオシッコした跡があり,まだ乾かず湯気が立っていた。で,お釈迦様は,自分の5本の指を「五行山」という山脈に変え、悟空を山の下敷きにして閉じこめてしまった,というまあ有名な話だ。

孫悟空.jpg


悟空の驕慢を懲らしめる,という話ではあるが,お釈迦様の手のひらから出られない,のではなく,お釈迦様の手のひらに護られている,とも読める。その含意で,

お蔭様,
あるいは,
お蔭をもちまして,

という言い回しになる,と考えると,件の手のひらは,「蔭」でもある。

確か,ニュートンは,先人の肩に乗って,云々という言い回しをしていたと思うが,正確には,

「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。」

と(ロバート・フック宛)手紙に書いたらしい。嚆矢は,フランスのベルナールで,

「私たちは巨人の肩の上に乗る小人のようなものだ」

という言い方をしていたらしい。まあ,いずれにしろ,

「巨人の肩の上にのる矮人」

というメタファーで,

先人の積み重ねた発見に基づいて何かを発見することを指す,

という意味とされる。これも「蔭」である。

「巨人の肩の上に立つ」
「巨人の肩に座る」
「巨人の肩に登る」
「巨人の肩に乗る小人」
「巨人の肩に立つ侏儒」

等とも言われる。僕には師匠と呼べる人は,一人しかいないが,その人をきっかけにして,

視界が開いた,

と思っている。視界については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/425947852.html

に書いた。自分の目が啓くといってもいい。それは,単なる知識の習得というよりは,ものの見方が変って,ものの見え方が変わった,という言い方がふさわしいだろう。自分一人でもいずれ到達できたかもしれないが,そのためのステップ数をいくつかかさ上げしてもらった感じである。

思えば,人類の起源をたどると,

「カリフォルニア大学バークレー校のレベッカ・キャンとアラン・ウィルソンのグループは、できるだけ多くの民族を含む147人のミトコンドリアDNAの塩基配列を解析した。これを元に彼らは全てのサンプルを解析し系統樹を作成した。すると、人類の系図は二つの大きな枝にわかれ、ひとつはアフリカ人のみからなる枝、もう一つはアフリカ人の一部と、その他すべての人種からなる枝であることがわかった。これはすなわち全人類に共通の祖先のうちの一人がアフリカにいたことを示唆する。このように論理的に明らかにされた古代の女性に対して名付けられた名称が『ミトコンドリア・イブ』である。」

と言われる「イブ」にたどりつく。そこからつないだDNAの端っこに,いまの自分がいる。その連鎖も「蔭」だ。

かつて,NLP を学んでいた時,不意に,父親の眼差しを意識したことがある。その眼差しに,温もりを感じた気がしたのだ。それを「蔭」というものだと思い出した。

僕は,いい歳をして,父が,母が,と何かにつけて,両親に原因帰属させるのを毛嫌いするところがある。それは,いまのおのれの在りようを反映しているにすぎない。まあ,ある年齢になったら,そうしないでいるのは自分の選択で,正さないおのれへの,それを口実にしているだけだという性根が見える気がしたからだ。

幸か不幸か,僕は,両親に,帰属させるべき特段のプラスもマイナスも感じたことはない。父親には叱られたのが兄妹喧嘩の時に,正座させられた記憶だけしかない。別に寡黙だったわけではない。金が有り余っている家庭ではなかったから,欲しいものを買ってもらえない不満があっても,父と母に特段の恨みもつらみも感じたことはない。むしろ,何も感じさせないという「蔭」というものを,改めて,感じとれるのかもしれない。

不肖の息子,だから,余り口幅ったいことは言えないが,ワークショップなどにでると,逆に,おのれの両親が際立って照射される気がする。父は僕の二十台半ばで死んだので,一緒にしみじみ話せる時間を体験することができなかったから,僕にとって,父は,明治の男のまま,いつまでも僕の中で屹立している。その「蔭」の恩恵を,最近強く意識する。

感謝については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/414403975.html

に,ありがとうについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163565.html

に,お蔭様については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415123076.html

に,書いたが,僕に気分としては,「蔭」は,つまり,お蔭様は,むしろ,

かたじけない,

と,少し大時代な言いようが,ぴったりくる。かたじけないについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/414842190.html

に,書いたが,

忝い
とも
辱い

とも当てる。かしこまる意味では,

辱い

を当て,恐縮するという意味では,

忝い

という字を当てる。いまは,ニュアンスで言うと,

お恥ずかしい,
もったいない,
畏れ多い
申し訳ない,
めっそうもない,

というのが近い。「蔭」とは,そう気づかなければ,それまでかもしれないし,気づいてくれとも言っていないのかもしれない。そういうのを,

慈愛,

というのではないか。「愛」というと,日本語の感性とはずれるが,慈愛は,「蔭」と合う気がする。








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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posted by Toshi at 05:32| Comment(0) | 感謝 | 更新情報をチェックする
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