2015年09月21日

百尺竿頭


百尺竿頭は,

ひゃくしゃくかんとう

と訓む。「百尺竿頭に一歩を進む」といった使い方をする。あるいは,修行の世界では,

百尺竿頭に一歩を進め,絶後に再び蘇る,

といった使い方をするそうだ。

「伝灯録」(景徳伝灯録)に由来するらしい。『正法眼蔵随聞記』にも,

「古人の云く、『百尺の竿頭に更に一歩を進むべし』」

と,記述されているそうである。正確には,

「百尺の竿頭に更に一歩を進むべし。此の心は,十文のさをのさきにのぼりて,猶手足をはなちて,即ち身心わ法下せんがごとし」

とある。

「百尺の竿の先に達しているが、なおその上に一歩を進もうとする。すでに努力・工夫を尽くしたうえに、さらに尽力すること、また、十分に言を尽くして説いたうえに、さらに一歩進めて説くことのたとえ。」

 百尺竿頭に坐する底の人、
 然も得入すと雖も、未だ真を為さず、
 百尺竿頭に須く歩を進め、十方世界に全身を現ずべし。

と,無門関にある,という。

http://www.jyofukuji.com/10zengo/2003/12.htm

によると,高い竿の先とは,

「長い修行で至った悟りの極地の喩え。しかし、如何ほど高い境地にあっても、そこに留まって安住していたら何のはたらきも出来ない。その悟りより、『さらに一歩、歩を進めよ』と言うことは、百尺の竿の先きから踏み出すほどに不惜身命、命をも投げ出して、衆生救済へ向かってこそ、悟りの意義がある」

という意味らしい。悟りをひらいた境地に満足せず,その先を目指せという意味で,禅門では,

「大死一番、絶後に蘇る」
とか,
「青霄裡に住まらず」

という語があるらしい。霄裡とは,

「雲ひとつ無い晴れ渡った大空。」

のこと,「そのが広がって清々し尊い世界だが、いかに尊い境地であっても、悟りの本当の働きはその青霄裡に留まっていては出来ない」の意味らしい。

また,

http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa08/page251.html

には,

「石霜和尚と長沙景岑禅師の問答です。石霜和尚の『百尺竿頭如何が歩を進めん』という問いに、長沙禅師は『百尺竿頭にすべからく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし』と応じた。」

とあり,

「百尺竿頭とは長い竿の先のことですが、それは、きびしい修行を経て到達できる悟りの境地です。修行のすえに悟りを開いたとしても、修行の道に終わりはないから『さらに一歩を進めよ』ということです。」

とある。ステップに置き換えてもいい。ステージを上がると,見える世界が変わる。しかし,その

「百尺竿頭に止まってはならない」

ということなのである。

「修行を積んで徳を重ねたとしても、そこにとどまってしまえば、そして、そこに安住して執着してしまえば、もはやそこは百尺竿頭、すなわち、きびしい修行を経て到達できる悟りの境地ではない。百尺竿頭に止まってはならないのです。」

という意味なのである。

「勇を奮って一歩踏み出してみよ、そうすれば必ず死の底より蘇ることができる。そこには従来までとは全く違った別世界が広がり、新しい生命の根源を手に入れることが出来る。」

視界が変わる,という意味なのである。

たしか,エジソンの名言に,

「ほとんどすべての人間は、もうこれ以上アイデアを考えるのは不可能だというところまで行きつき、そこでやる気をなくしてしまう。勝負はそこからだというのに」

というのがあった。昔営業をしているとき,これで最後にしようと思って,それから,もう一軒行くか行かないかが,差が出る,というようなことを言われた記憶がある。百尺竿頭とは,裏返しの言葉だか,

百折不撓

という言葉に当たる。どん底を更に這い上がろうとするか,頂点を更に昇ろうとするか,精神性は,似ている。

「諦めたときに自分がどれほど成功に近づいていたか気づかなかった人」

が,扉を開けそこなう,というのもそういうことなのだろう。「諦めた」を「満足した」と置き換えれば,そのまま通じる。見えている視界で,絶望するのも,満足するのも,そこが行きどまりという意味では,同じなのかもしれない。しかし,

努力できる,というのも才能の内だ,

という言葉が,怠け者の自分には重い。







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:24| Comment(0) | 生き方 | 更新情報をチェックする
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