2015年09月22日

二人称


西川アサキ『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』を読む。

魂と体,脳.jpg


冒頭にこう書く。

「本当に存在するものは何だろうか?
 私の『今・ここでの体験』だろうか? それとも,他人から見た『物質としての脳』だろうか? もちろん,両方だろう。ところが,そういった瞬間,『私』の体験と『他人からみた』脳を結ぶメカニズムが知りたくなる。しかし,他人からみた世界,三人称で語られる客観的物理的世界では,脳は複雑な回路にすぎない。そこに一人称の世界,『私』に体験できる質(クオリア)を『生み出す』機構は今のところ見つからず,今後もわからない。」

いわゆる心身問題が,この「三人称的世界=脳」と「一人称的世界=クオリア」の間の問題として現れる。で,

「一人称での心身問題の問いは,『この体験=クオリアから,どのように世界を構成するか?』という形をしている。一方,三人称の場合は,『脳はどのようにクオリアを生みだすのか?』という形になるだろう。」

と整理し,こう問う。

「では,『二人称』の心身問題の問いはどのようなものになるのだろうか?二人称の世界には『私』と『あなた』が存在する。だから問いも二つの方向性をもつ。つまり,(私からあなたへ)「あなたには,心はあるのか?」という方向,そして,(あなたから私へ)「私の体験が,分かるか?」の二とおりだ。」

その意味をさらに続ける。

「この問いかけ方は,きわめて個別的な存在,つまり『私』の前にいる『あなた』や,『あなた』の前にいる『私』が入っている点で,三人称の問い方と異なる。一方,『この私』以外の他者が,『世界にある事物一般の中に吸収され埋没してしまいがちな一人称とも異なる。もちろん二人称を,通常の心身問題に近いバージョンにすることもできる。」

そのニュアンスを,続けて,こう書く。

「たとえば『「この」脳に「あなたはいるか?』という形はどうだろうか? しかし,このときも『脳(一般)にクオリア(というもの)がどのように宿るか?』とは,少し異なるニュアンスが残存する。三人称には個別性がないし,一人称には個別性しかない。一方二人称というのは,その両者を結ぶ。そのとき,対面であることから生じる不確実性,緊張感が生じる。」

と,そして,この問題意識を前提に次の意図を読むと,本書の目指すものが見えてくる。

「ここで一歩引いた視点から,『心身問題』を一種の『ゲーム』だと考えてみよう。つまり,出発点として,『本当に存在するもの=実体』を選び,『選ばれなかったもの=非実体=錯覚』の出発点を説明するロジックを探すゲームだ。たとえば『実体』として脳をとれば,『非実体=錯覚』は『クオリア』だから,『脳がいかにしてクオリアを生みだすのか?』を説明するロジックを探すことが『心身問題』を解くことになる。逆に『実体』を『クオリア』にして同じゲームをはじめることもできる。」

「あるいは,『実体』として『何か新しいX』を持ち出し,『脳』と『クオリア』がともにそのXからくる『錯覚』だと視点を変えることもできる。」

ここで,著者は,その実体とするXを,ライプニッツの考えた「モナドロジー」という世界観を取り上げる。それは,

「まず『実体』としての『モナド』がある。(中略)『モナド』は,基本的には,我々の意識の特徴,つまり『単一で分割できないが,内部に表象=知覚=クオリアをたくさん抱え,変化する』という特徴を一般化したものだ。」

で,「クオリアを実体とする立場で『心身問題』を解く方法の,極端な形」だから,うってつけである。

そして,著者はもう一つ仕掛ける。ライプニッツのモナドロジーそのものを扱うに,それを論じるドゥルーズの『襞』をもってくる。モナドロジーの「あなた」を配することで,ある意味,実体化したクオリアに対比する「あなた」を配した格好に,二重に仕掛ける。それは,ライプニッツが,「モナドロジー」を文通という常に具体的相手を想定して展開したこととも重ねあわされている。それを,キルケゴールの『死にいたる病』にある(ある著作家の作品に知らぬまに誤字がまぎれこんだ)「誤字」の,

「この語字は自分が誤字であることを意識して作者に反抗しようとする。『いやだ。おれは抹消されるのを欲しない。おれはおまえをやり込めるための証人として,…ここに立っているのだ』」

この対話になぞらえる。この場合,どちらが実体でもいいのだ。で,

「実は本書では,冒頭で述べた『心身問題ゲーム』でのXとして,この形の不確実性,二人称の緊張感を持ってきて議論を展開しようとしている」

と。そして,ライプニッツのいう「支配的モナド」と著者の本書で使う「中枢」がキー概念となる。

「(中枢は)もともと著者がコンピュータ・シミュレーション用に考えた概念で,…次の条件を満たすシステム内の特殊な要素が『中枢』である。つまり,[1]それは,自分の属するシステム(身体)に対する縮図=概要を持ち,[2]それは,システムの他の要素に命令を下し,[3]それが失われると,システム全体の協調が破壊され,[オプション]多くの場合,それは唯一(の存在)である。」

という。しかし,集合知のように,「『中枢』的な命令者がいないにもかかわらず,全体として協調した機能…が出現=創発する」ことがある。にもかかわらず,多く,「中枢」が採用されている。

「だとするなら,その必要性はどこから来るのか? そこで,中枢なき集合知の出現=創発ではなく,『中枢それ自体の出現=創発に関するシミュレーションがあれば,『支配的モナド』や『実体的紐帯』(ライプニッツの持ち出した概念)を,より展開するための道具として使えるのではないかと考えた。」

その結果として,本書で最終的に「二人称としての心身問題」に行き着くことになった,と,著者は言う。当然これは,予想がつくように,「私」というものの発生,ということのシミュレーションになる。

著者自身も,「本書は飛ばし読みできない」と書いているように,前の章で展開した概念に依拠して次に進むというようになっているので,(手に余るが,仮にしようとしても)要約するのも難しい。上記の問題意識から,出された結論部分をまとめて,締めくくりとしたい。しかし,実は,本書は,ウロボロスのように,巻末が,巻頭へと戻るような仕掛けにもなっているのだが。

著者は,暫定的と断ってこうまとめる。

「中枢は恐らく二つのモードで体験されうる。一つは,他人の脳,それは体験にとっての不確実性が集中する場所である。これはいわば,三人称の中枢体験であり,または『図』としての中枢である。一方,もう一つのモードがある。それはさまざまな体験を位置づける場,安定した『地=フレーム』としての中枢だ。三人称としての中枢体験に対して,これを一人称の中枢体験と呼ぼう。一人称の中枢は,不確実性が集中する三人称としての中枢と相補的な,安定した背景として体験される。(中略)
 別の言葉で言えば,一人称の中枢体験=地の安定性が,『空間』の原基であり,この構造が安定な時に限り,『脳に集中した不確実性=普通の心身問題』が出現できる。しかし,地としてのフレームが不安定になる=一人称としての中枢が不安定になるとき,不確実性は,他者の内部や,脳といった三人称の中枢にも,閉じ込められなくなる=集中しなくなる。すると,陰翳と窪みの間にある『ズレ』のように,異なるクオリア間の協調の不確実性が露呈する。」

この一人称と三人称の中枢が崩れるとき,「二人称の心身問題」,「エージェント間の協調可能性の吟味プロセスが露呈する」という。ここで「わたし」というもののことを言っている。最後に,その「わたし」について,こう締めくくる。

本書で再三取り上げられているシミュレーションは,「ロボットに組み込むプログラムを抽象化したもの」だという。それをロボットに戻した場合,

「ロボット内に自己組織化する『中枢=主体』と,その機能の研究の焦点が向かう。『わたし』は,『なぜ』必要なのだろうか? それを研究者がプログラムするのと,自己組織化させた場合の違いは何だろうか? 直感的には,そこで鍵になるのは,中枢の入れ子構造だと思う。たとえば,脳の場合,身体に脳という『中枢』があるように,脳内にはさらにワーキングメモリー実行系という『中枢内中枢』もあるとも解釈できる。もし,このような入れ子及びその動的な階層変更が,機能的な意味を持つなら,中枢を自己組織化させる場合にのみ生ずる機能があるかもしれない。プログラムを直接書いてしまうと,何レベル入れ子を作るかを先に決定する必要があるが,自己組織化の場合,それをダイナミックに解決してもらうことが可能だからだ。」

とすると,「わたし」と「あなた」の対話は,構造化され,中枢を生みだす,というように見える。いまのところ「わたし」をそう見ていいのか,とふと疑問に思う。いずれ,「X」を実体と仮定したものから始まったのであって,その対話もまた,脳のホログラフのようなものなのではないか。それは,心身問題のとば口を一歩もはいっていないのではないか,と。

参考文献;
西川アサキ『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(講談社選書メチエ)









今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:17| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください